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日蓮大聖人・池田大作

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立正安国論  (8/16) 彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには…
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を捨てて並びに建立の思を廃す、是を以て住持の聖僧行いて帰らず守護の善神去つて来ること無し、是れ偏に法然の選択に依るなり、悲いかな数十年の間百千万の人魔縁に蕩かされて多く仏教に迷えり、傍を好んで正を忘る善神怒を為さざらんや円を捨てて偏を好む悪鬼便りを得ざらんや、如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには

客殊に色を作して曰く、我が本師釈迦文浄土の三部経を説きたまいて以来、曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣きて偏に西方の行を弘め、善導和尚は雑行を抛つて専修を立て、慧心僧都は諸経の要文を集めて念仏の一行を宗とす、弥陀を貴重すること誠に以て然なり又往生の人其れ幾ばくぞや、就中法然聖人は幼少にして天台山に昇り十七にして六十巻に渉り並びに八宗を究め具に大意を得たり、其の外一切の経論・七遍反覆し章疏伝記究め看ざることなく智は日月に斉しく徳は先師に越えたり、然りと雖も猶出離の趣に迷いて涅槃の旨を弁えず、故に徧く覿悉く鑑み深く思い遠く慮り遂に諸経を抛ちて専ら念仏を修す、其の上一夢の霊応を蒙り四裔の親疎に弘む、故に或は勢至の化身と号し或は善導の再誕と仰ぐ、然れば則ち十方の貴賤頭を低れ一朝の男女歩を運ぶ、爾しより来た春秋推移り星霜相積れり、而るに忝くも釈尊の教を疎にして恣に弥陀の文を譏る何ぞ近年の災を以て聖代の時に課せ強ちに先師を毀り更に聖人を罵るや、毛を吹いて疵を求め皮を剪つて血を出す昔より今に至るまで此くの如き悪言未だ見ず惶る可く慎む可し、罪業至つて重し科条争か遁れん対座猶以て恐れ有り杖に携われて則ち帰らんと欲す。

主人咲み止めて曰く辛きことを蓼の葉に習い臭きことを溷厠に忘る善言を聞いて悪言と思い謗者を指して聖人と謂い正師を疑つて悪侶に擬す、其の迷誠に深く其の罪浅からず、事の起りを聞け委しく其の趣を談ぜん、釈尊説法の内一代五時の間に先後を立てて権実を弁ず、而るに曇鸞・道綽・善導既に権に就いて実を忘れ先に依


つて後を捨つ未だ仏教の淵底を探らざる者なり、就中法然は其の流を酌むと雖も其の源を知らず、所以は何ん大乗経の六百三十七部二千八百八十三巻・並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の字を置いて一切衆生の心を薄んず、是れ偏に私曲の詞を展べて全く仏経の説を見ず、妄語の至り悪口の科言うても比無し責めても余り有り人皆其の妄語を信じ悉く彼の選択を貴ぶ、故に浄土の三経を崇めて衆経を抛ち極楽の一仏を仰いで諸仏を忘る、誠に是れ諸仏諸経の怨敵聖僧衆人の讎敵なり、此の邪教広く八荒に弘まり周く十方に遍す、抑近年の災難を以て往代を難ずるの由強ちに之を恐る、聊か先例を引いて汝が迷を悟す可し、止観第二に史記を引いて云く「周の末に被髪・袒身・礼度に依らざる者有り」弘決の第二に此の文を釈するに左伝を引いて曰く「初め平王の東に遷りしに伊川に髪を被にする者の野に於て祭るを見る、識者の曰く、百年に及ばじ其の礼先ず亡びぬ」と、爰に知んぬ徴前に顕れ災い後に致ることを、又阮藉が逸才なりしに蓬頭散帯す後に公卿の子孫皆之に教いて奴苟相辱しむる者を方に自然に達すと云い撙節兢持する者を呼んで田舎と為す是を司馬氏の滅する相と為す已上

又慈覚大師の入唐巡礼記を案ずるに云く、「唐の武宗皇帝・会昌元年勅して章敬寺の鏡霜法師をして諸寺に於て弥陀念仏の教を伝え令む寺毎に三日巡輪すること絶えず、同二年回鶻国の軍兵等唐の堺を侵す、同三年河北の節度使忽ち乱を起す、其の後大蕃国更た命を拒み回鶻国重ねて地を奪う、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に起る、何に況んや武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す乱を撥ること能わずして遂に以て事有り」已上取意

此れを以て之を惟うに法然は後鳥羽院の御宇・建仁年中の者なり、彼の院の御事既に眼前に在り、然れば則ち大唐に例を残し吾が朝に証を顕す、汝疑うこと莫かれ汝怪むこと莫かれ唯須く凶を捨てて善に帰し源を塞ぎ根を截べし。


客聊か和ぎて曰く未だ淵底を究めざるに数ば其の趣を知る但し華洛より柳営に至るまで釈門に枢楗在り仏家に棟梁在り、然るに未だ勘状を進らせず上奏に及ばず汝賤身を以て輙く莠言を吐く其の義余り有り其の理謂れ無し。

主人の曰く、予少量為りと雖も忝くも大乗を学す蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ、弟子一仏の子と生れて諸経の王に事う、何ぞ仏法の衰微を見て心情の哀惜を起さざらんや。

其の上涅槃経に云く「若し善比丘あつて法を壊ぶる者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子・真の声聞なり」と、余・善比丘の身為らずと雖も「仏法中怨」の責を遁れんが為に唯大綱を撮つて粗一端を示す。

其の上去る元仁年中に延暦興福の両寺より度度奏聞を経・勅宣・御教書を申し下して、法然の選択の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に之を焼失せしむ、法然の墓所に於ては感神院の犬神人に仰せ付けて破却せしむ其の門弟・隆観・聖光・成覚・薩生等は遠国に配流せらる、其の後未だ御勘気を許されず豈未だ勘状を進らせずと云わんや。

客則ち和ぎて曰く、経を下し僧を謗ずること一人には論じ難し、然れども大乗経六百三十七部二千八百八十三巻並びに一切の諸仏菩薩及び諸の世天等を以て捨閉閣抛の四字に載す其の詞勿論なり、其の文顕然なり、此の瑕瑾を守つて其の誹謗を成せども迷うて言うか覚りて語るか、賢愚弁ぜず是非定め難し、但し災難の起りは選択に因るの由、其の詞を盛に弥よ其の旨を談ず、所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。