Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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唱法華題目抄  (4/16) 謗法と申すは違背の義なり
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部経・善導和尚等の経釈に明かに見えて侍らん上はなにとか疑い給うべき、答えて曰く大通結縁の者を退大取小の謗法・名字即の者と申すは私の義にあらず天台大師の文句第三の巻に云く「法を聞いて未だ度せず而して世世に相い値うて今に声聞地に住する者有り即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師の疏記第三に重ねて此の釈の心を述べ給いて云く「但全く未だ品に入らず、倶に結縁と名づくるが故に」文・文の心は大通結縁の者は名字即の者となり、又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云く「若しは信若しは謗因つて倒れ因つて起く喜根を謗ずと雖も後要らず度を得るが如し」文・文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり、又初随喜の位の先の名字即と申す釈もあり疏記第十に云く「初めに法会にして聞く是れ初品なるべし第五十人は必ず随喜の位の初めに在る人なり」文・文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内・第五十人は初随喜の位の先の名字即と申す釈なり。

其の上五種法師にも受持・読・誦・書写の四人は自行の人大経の九人の先の四人は解無き者なり解説は化他後の五人は解有る人と証し給へり、疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」又云く「一向未だ凡位に入らず」文・文の心は五種法師は観行五品と釈すれども又五品已前の名字即の位とも釈するなり、此等の釈の如くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も経文の一偈・一句・一念随喜の者・五十展転等の内に入るかと覚え候、何に況や此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委くとかれたり持経者を謗ずる罪は法師品にとかれたり、此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品・随喜功徳品に説けり謗法と申すは違背の義なり随喜と申すは随順の義なりさせる義理を知らざれども一念も貴き由申すは違背随順の中には何れにか取られ候べき、又末代無智の者のわづかの供養随喜の功徳は経文には載せられざるか如何、其の上天台妙楽の釈の心は他の人師ありて法華


経の乃至童子戯・一偈・一句・五十展転の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり、然るに我が釈を作る時機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給わんは自語相違にあらずや故に妙楽大師五十展転の人を釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者初心の功徳の大なる事を測らず而して功を上位に推り此の初心を蔑る故に今彼の行浅く功深き事を示して以て経力を顕わす」文・文の心は謬つて法華経を説かん人の此の経は利智精進・上根上智の人のためといはん事を仏をそれて下根下智末代の無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を四十余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり、故に天台の釈には外道小乗権大乗までたくらべ来て法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり、所以に阿竭多仙人は十二年が間恒河の水を耳に留め耆兎仙人は一日の中に大海の水をすいほす此くの如き得通の仙人は小乗・阿含経の三賢の浅位の一通もなき凡夫には百千万倍劣れり、三明六通を得たりし小乗の舎利弗・目連等は華厳・方等・般若等の諸大乗経の未断三惑の一通もなき一偈・一句の凡夫には百千万倍劣れり華厳・方等・般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は法華経を僅かに結縁をなせる未断三惑・無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由釈の文顕然也、而るを当世の念仏宗等の人我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は方等般若の時の二乗のごとく自身をはぢしめてあるべき処に敢えて其の義なし、あまつさへ世間の道俗の中に僅かに観音品・自我偈なんどを読み適父母孝養なんどのために一日経等を書く事あればいゐさまたげて云く善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申し百の時は希に一二を得千の時は希に三五を得ん乃至千中無一と仰せられたり、何に況や智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば祖父の履或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうとめ侍るは是くの如く申す師も弟子も阿鼻の焔をや招かんずらんと申す。

問うて云く何なるすがた並に語を以てか法華経を世間にいゐうとむる者には侍るや・よにおそろしくこそおぼ


え候へ、答えて云く始めに智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ、末代に法華経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候。

問うて云く其の証拠如何、答えて云く法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す、即ち俗衆なり」文文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり、経に云く「悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文・妙楽大師此の文の心を釈して云く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文・文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を行ずるものの敵となるべしといふ事なり、経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂いて人間を軽賤する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如くならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王・大臣・婆羅門・居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人・外道の論議を説くと謂わん」已上妙楽大師此の文を釈して云く「三に七行は僣聖増上慢の者を明す」文経並に釈の心は悪世の中に多くの比丘有つて身には三衣一鉢を帯し阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく在家の諸人にあふがれて一言を吐けば如来の金言のごとくをもはれて法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために国王大臣等に向ひ奉つて此の人は