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日蓮大聖人・池田大作

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上野殿母御前御返事  (1/5) 釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・…
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かなしくは候へ、さは候へども釈迦仏・法華経に身を入れて候いしかば臨終・目出たく候いけり、心は父君と一所に霊山浄土に参りて・手をとり頭を合せてこそ悦ばれ候らめ、あはれなり・あはれなり。

上野殿母御前御返事

南条故七郎五郎殿の四十九日・御菩提のために送り給う物の日記の事、鵞目両ゆひ・白米一駄・芋一駄・すりだうふ・こんにやく・柿一籠・ゆ五十等云云御菩提の御ために法華経一部・自我偈数度・題目百千返唱へ奉り候い畢ぬ。

抑法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて・而かも唯仏与仏と説かれて仏と仏とのみこそ・しろしめされて・等覚已下乃至凡夫は叶はぬ事に候へ。

されば竜樹菩薩の大論には仏已下はただ信じて仏になるべしと見えて候、法華経の第四法師品に云く「薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」等云云、第五の巻に云く「文殊師利此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」等云云、第七の巻に云く「此の法華経も亦復是くの如し諸経の中に於て最も其の上たり」又云く「最も照明たり最も其の尊たり」等云云、此等の経文私の義にあらず仏の誠言にて候へば定めて・よもあやまりは候はじ、民が家に生れたる者我は侍に斉しなんど申せば必ずとが来るまして我れ国王に斉し・まして勝れたりなんと申せば・我が身のとがと・なるのみならず・父母と申し妻子と云ひ必ず損ずる事・大火の宅を焼き大木の倒るる時・小木等の損ずるが如し。

仏教も又かくの如く華厳・阿含・方等・般若・大日経・阿弥陀経等に依る人人の我が信じたるままに勝劣も弁へずして・我が阿弥陀経等は法華経と斉等なり・将た又勝れたりなんど申せば・其の一類の人人は我が経をほめられ・うれしと思へども還つてとがとなりて・師も弟子も檀那も悪道に堕つること・箭を射るが如し、但し法華経の一切経


に勝れりと申して候は・くるしからず還つて大功徳となり候、経文の如くなるが故なり。

此の法華経の始に無量義経と申す経おはします、譬えば大王の行幸の御時・将軍前陣して狼籍をしづむるが如し、其の無量義経に云く「四十余年には未だ真実を顕さず」等云云、此れは将軍が大王に敵する者を大弓を以て射はらひ・又太刀を以て切りすつるが如し、華厳経を読む華厳宗・阿含経の律僧等・観経の念仏者等・大日経の真言師等の者共が法華経にしたがはぬを・せめなびかす利剣の勅宣なり、譬えば貞任を義家が責め清盛を頼朝の打ち失せしが如し、無量義経の四十余年の文は不動明王の剣索・愛染明王の弓箭なり。

故南条五郎殿の死出の山・三途の河を越し給わん時・煩悩の山賊・罪業の海賊を静めて・事故なく霊山浄土へ参らせ給うべき御供の兵者は無量義経の四十余年・未顕真実の文ぞかし。

法華経第一の巻・方便品に云く「世尊の法は久くして後要らず当に真実を説きたもうべし」又云く「正直に方便を捨てて但無上道を説く」云云、第五の巻に云く「唯髻中の明珠」又云く「独り王の頂上に此の一珠有り」又云く「彼の強力の王の久しく護れる明珠を今乃ち之を与うるが如し」等云云、文の心は日本国に一切経わたれり七千三百九十九巻なり彼れ彼れの経経は皆法華経の眷属なり、例せば日本国の男女の数・四十九億九万四千八百二十八人候へども皆一人の国王の家人たるが如し、一切経の心は愚癡の女人なんどの唯一時に心うべきやうは・たとへば大塔をくみ候には先ず材木より外に足代と申して多くの小木を集め一丈二丈計りゆひあげ候なり、かくゆひあげて材木を以て大塔をくみあげ候いつれば・返つて足代を切り捨て大塔は候なり、足代と申すは一切経なり大塔と申すは法華経なり、仏一切経を説き給いし事は法華経を説かせ給はんための足代なり、正直捨方便と申して法華経を信ずる人は阿弥陀経等の南無阿弥陀仏・大日経等の真言宗・阿含経等の律宗の二百五十戒等を切りすて抛ちてのち法華経をば持ち候なり、大塔をくまんがためには足代大切なれども大塔をくみあげぬれば・足代を切り落


すなり、正直捨方便と申す文の心是なり、足代より塔は出来して候へども塔を捨てて・足代ををがむ人なし、今の世の道心者等・一向に南無阿弥陀仏と唱えて一生をすごし・南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人人は大塔をすてて足代ををがむ人人なり、世間にかしこく・はかなき人と申すは是なり。

故七郎五郎殿は当世の日本国の人人には・にさせ給はず、をさなき心なれども賢き父の跡をおひ御年いまだ・はたちにも及ばぬ人が、南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて仏にならせ給いぬ・無一不成仏は是なり、乞い願わくは悲母我が子を恋しく思食し給いなば南無妙法蓮華経と唱えさせ給いて・故南条殿・故五郎殿と一所に生れんと願はせ給へ、一つ種は一つ種・別の種は別の種・同じ妙法蓮華経の種を心に・はらませ給いなば・同じ妙法蓮華経の国へ生れさせ給うべし、三人面をならべさせ給はん時・御悦びいかが・うれしくおぼしめすべきや。

抑此の法華経を開いて拝見仕り候へば「如来則ち為に衣を以て之を覆いたもう又他方現在の諸仏の護念する所と為らん」等云云、経文の心は東西南北・八方・並びに三千大千世界の外・四百万億那由佗の国土に十方の諸仏ぞくぞくと充満せさせ給う、天には星の如く・地には稲麻のやうに並居させ給ひ、法華経の行者を守護せさせ給ふ事、譬えば大王の太子を諸の臣下の守護するが如し、但四天王・一類のまほり給はん事の・かたじけなく候に、一切の四天王・一切の星宿・一切の日月・帝釈・梵天等の守護せさせ給うに足るべき事なり、其の上・一切の二乗・一切の菩薩・兜率内院の弥勒菩薩・迦羅陀山の地蔵・補陀落山の観世音・清凉山の文殊師利菩薩等・各各眷属を具足して法華経の行者を守護せさせ給うに足るべき事に候に・又かたじけなくも釈迦・多宝・十方の諸仏のてづからみづから来り給いて・昼夜十二時に守らせ給はん事のかたじけなさ申す計りなし。

かかるめでたき御経を故五郎殿は御信用ありて仏にならせ給いて・今日は四十九日にならせ給へば・一切の諸仏・霊山浄土に集まらせ給いて・或は手にすへ・或は頂をなで・或はいだき・或は悦び・月の始めて出でたるが如く・