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日蓮大聖人・池田大作

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一念三千法門  (1/5) 一身一念法界に遍し
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一念三千法門

                  正嘉二年 三十七歳御作

法華経の余経に勝れたる事何事ぞ此の経に一心三観・一念三千と云う事あり、薬王菩薩・漢土に出世して天台大師と云われ此の法門を覚り給いしかども先ず玄義十巻・文句十巻・覚意三昧・小止観・浄名疏・四念処・次第禅門等の多くの法門を説きしかども此の一念三千の法門をば談じ給はず百界千如の法門計りなり、御年五十七の夏四月の比・荊州玉泉寺と申す処にて御弟子章安大師に教え給ふ止観と申す文十巻あり、上四帖に猶秘し給いて但六即・四種三昧等計りなり、五の巻に至つて十境・十乗・一念三千の法門を立て夫れ一心に具す等と云云是より二百年後に妙楽大師釈して云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称て一身一念法界に遍し」と云云、此の一念三千一心三観の法門は法華経の一の巻の十如是より起れり、文の心は百界千如三千世間云云、さて一心三観と申すは余宗は如是とあそばす是れ僻事にて二義かけたり天台南岳の御義を知らざる故なり、されば当宗には天台の所釈の如く三遍読に功徳まさる、第一に是相如と相性体力以下の十を如と云ふ如と云うは空の義なるが故に十法界・皆空諦なり是を読み観ずる時は我が身即・報身如来なり八万四千又は般若とも申す、第二に如是相・是れ我が身の色形顕れたる相なり是れ皆仮なり相性体力以下の十なれば十法界・皆仮諦と申して仮の義なり是を読み観ずる時は我が身即・応身如来なり又は解脱とも申す、第三に相如是と云うは中道と申して仏の法身の形なり是を読み観ずる時は我が身即法身如来なり又は中道とも法性とも涅槃とも寂滅とも申す、此の三を法報応の三身とも空仮中の三諦とも法身・般若・解脱の三徳とも申す此の三身如来全く外になし我が身即三徳究竟の体にて三身即一身の本覚の仏なり、是をしるを如来とも聖人とも悟とも云う知らざるを凡夫とも衆生とも迷とも申す。


十界の衆生・各互に十界を具足す合すれば百界なり百界に各各十如を具すれば千如なり、此の千如是に衆生世間・国土世間・五陰世間を具すれば三千なり、百界と顕れたる色相は皆総て仮の義なれば仮諦の一なり千如は総て空の義なれば空諦の一なり三千世間は総じて法身の義なれば中道の一なり、法門多しと雖も但三諦なり此の三諦を三身如来とも三徳究竟とも申すなり始の三如是は本覚の如来なり、終の七如是と一体にして無二無別なれば本末究竟等とは申すなり、本と申すは仏性・末と申すは未顕の仏・九界の名なり究竟等と申すは妙覚究竟の如来と理即の凡夫なる我等と差別無きを究竟等とも平等大慧の法華経とも申すなり、始の三如是は本覚の如来なり本覚の如来を悟り出し給へる妙覚の仏なれば我等は妙覚の父母なり仏は我等が所生の子なり、止の一に云く「止は則仏の母・観は即仏の父なり」と云云、譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し、弘の一の止観の二字は正しく聞体を示す聞かざる者は本末究竟等も徒らか、子なれども親にまさる事多し重華はかたくなはしき父を敬いて賢人の名を得たり、沛公は帝王と成つて後も其の父を拝す其の敬われし父をば全く王といはず敬いし子をば王と仰ぐが如し、其れ仏は子なれども賢くましまして悟り出し給へり、凡夫は親なれども愚癡にして未だ悟らず委しき義を知らざる人毘盧の頂上をふむなんど悪口す大なる僻事なり。

一心三観に付いて次第の三観・不次第の三観と云う事あり委く申すに及ばず候、此の三観を心得すまし成就したる処を華厳経に三界唯一心と云云、天台は諸水入海とのぶ仏と我等と総て一切衆生・理性一にて・へだてなきを平等大慧と云うなり、平等と書いては・おしなべて・と読む、此の一心三観・一念三千の法門・諸経にたえて之無し法華経に遇わざれば争か成仏す可きや、余経には六界八界より十界を明せどもさらに具を明かさず、法華経は


念念に一心三観・一念三千の謂を観ずれば我が身本覚の如来なること悟り出され無明の雲晴れて法性の月明かに妄想の夢醒て本覚の月輪いさぎよく父母所生の肉身・煩悩具縛の身・即本有常住の如来となるべし、此を即身成仏とも煩悩即菩提とも生死即涅槃とも申す、此の時法界を照し見れば悉く中道の一理にて仏も衆生も一なり、されば天台の所釈に「一色一香中道に非ざること無し」と釈し給へり、此の時は十方世界皆寂光浄土にて何れの処をか弥陀薬師等の浄土とは云わん、是を以て法華経に「是の法は法位に住して世間の相常住なり」と説き給ふさては経をよまずとも心地の観念計りにて成仏す可きかと思いたれば一念三千の観念も一心三観の観法も妙法蓮華経の五字に納れり、妙法蓮華経の五字は又我等が一心に納りて候けり、天台の所釈に「此の妙法蓮華経は本地甚深の奥蔵・三世の如来の証得したもう所なり」と釈したり、さて此の妙法蓮華経を唱うる時心中の本覚の仏顕る我等が身と心をば蔵に譬へ妙の一字を印に譬へたり、天台の御釈に「秘密の奥蔵を発く之を称して妙と為す・権実の正軌を示す故に号して法と為す、久遠の本果を指す之を喩うるに蓮を以てす、不二の円道に会す之を譬うるに華を以てす、声仏事を為す之を称して経と為す」と釈し給う、又「妙とは不可思議の法を褒美するなり又妙とは十界・十如・権実の法なり」と云云、経の題目を唱うると観念と一なる事心得がたしと愚癡の人は思い給ふべし、されども天台止の二に而於説黙と云へり、説とは経・黙とは観念なり、又四教義の一に云く「但功の唐捐ならざるのみに非ず亦能く理に契うの要なるをや」と云云、天台大師と申すは薬王菩薩なり此の大師の説而観而と釈し給ふ元より天台の所釈に因縁・約教・本迹・観心の四種の御釈あり四種の重を知らずして一しなを見たる人一向本迹をむねとし一向観心を面とす、法華経に法・譬・因縁と云う事あり法説の段に至つて諸仏出世の本懐・一切衆生・成仏の直道と定む、我のみならず一切衆生・直至道場の因縁なりと定め給いしは題目なり、されば天台玄の一に「衆善の小行を会して広大の一乗に帰す」と広大と申すは残らず引導し給うを申すなり、仮使釈尊一人・本懐と宣べ給う