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日蓮大聖人・池田大作

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四条金吾殿御返事  (2/2) 一生はゆめの上・明日をごせず・いかなる乞食…
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ごとく・すこしも・へつらはず振舞仰せあるべし、中中へつらふならば・あしかりなん、設ひ所領をめされ追い出し給うとも十羅刹女の御計いにてぞ・あるらむと・ふかくたのませ給うべし。

日蓮はながされずして・かまくらにだにも・ありしかば・有りし・いくさに一定打ち殺されなん、此れも又御内にては・あしかりぬべければ釈迦仏の御計いにてや・あるらむ、陳状は申して候へども又それに僧は候へども・あまりのおぼつかなさに三位房をつかはすべく候に・いまだ所労きらきらしく候はず候へば・同事に此の御房をまいらせ候、だいがくの三郎殿か・たきの太郎殿か・とき殿かに・いとまに随いて・かかせてあげさせ給うべし、これはあげなば事きれなむ・いたう・いそがずとも内内うちを・したため・又ほかの・かつばらにも・あまねく・さはがせて・さしいだしたらば若や此の文かまくら内にも・ひろうし上へもまいる事もやあるらん、わざはひの幸はこれなり。

法華経の御事は已前に申しふりぬ、しかれども小事こそ善よりは・をこて候へ、大事になりぬれば必ず大なる・さはぎが大なる幸となるなり、此の陳状・人ごとに・みるならば彼等がはぢあらわるべし、只一口に申し給へ我とは御内を出て所領をあぐべからず、上より・めされいださむは法華経の御布施・幸と思うべしと・ののしらせ給へ、かへすがへす奉行人に・へつらうけしきなかれ、此の所領は上より給たるにはあらず、大事の御所労を法華経の薬をもつて・たすけまいらせて給て候所領なれば召すならば御所労こそ又かへり候はむずれ、爾時は頼基に御たいじやう候とも用ひまいらせ候まじく候とうちあて・にくさうげにて・かへるべし。

あなかしこ・あなかしこ・御よりあひあるべからず、よるは用心きびしく夜廻の殿原かたらいて用ひ常には・よりあはるべし今度御内をだにも・いだされずば十に九は内のものねらひなむかまへて・きたなきしにすべからず。

  建治三年丁丑七月                  日蓮花押

   四条金吾殿御返事


四条金吾殿御返事

                    建治三年 五十六歳御作

御文あらあらうけ給わりて長き夜のあけ・とをき道をかへりたるがごとし、夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり、中にも天竺をば月氏という我国をば日本と申す一閻浮提・八万の国の中に大なる国は天竺・小なる国は日本なり、名のめでたきは印度第二・扶桑第一なり、仏法は月の国より始めて日の国にとどまるべし、月は西より出で東に向ひ日は東より西へ行く事天然のことはり、磁石と鉄と雷と象華とのごとし、誰か此のことはりを・やぶらん。

此の国に仏法わたりし由来をたづぬれば天神七代・地神五代すぎて人王の代となりて第一神武天皇・乃至第三十代欽明天皇と申せし王をはしき、位につかせ給いて三十二年治世し給いしに第十三年壬申十月十三日辛酉に此の国より西に百済国と申す州あり日本国の大王の御知行の国なり、其の国の大王・聖明王と申せし国王あり、年貢を日本国にまいらせし・ついでに金銅の釈迦仏・並に一切経・法師・尼等をわたし・たりしかば天皇大に喜びて群臣に仰せて西蕃の仏を・あがめ奉るべしや・いなや、蘇我の大臣いなめの宿禰と申せし人の云く西蕃の諸国みな此れを礼す・とよあきやまとあに独り背やと申す、物部の大むらじをこし中臣のかまこ等奏して曰く我が国家・天下に君たる人は・つねに天地しやそく百八十神を春夏秋冬に・さいはいするを事とす、しかるを今更あらためて西蕃の神を拝せばおそらくは我が国の神いかりをなさんと云云、爾の時に天皇わかちがたくして勅宣す、此の事を只心みに蘇我の大臣につけて一人にあがめさすべし、他人用いる事なかれ、蘇我の大臣うけ取りて大に悦び給いて此の釈迦仏を我が居住のおはたと申すところに入まいらせて安置せり、物部の大連・不思議なりとて・いきどを


りし程に日本国に大疫病おこりて死せる者・大半に及ぶ・すでに国民尽きぬべかりしかば、物部の大連・隙を得て此の仏を失うべきよし申せしかば勅宣なる、早く他国の仏法を棄つべし云云、物部の大連・御使として仏をば取りて炭をもつてをこし・つちをもつて打ちくだき・仏殿をば火をかけて・やきはらひ僧尼をば・むちをくわう、其の時天に雲なくして大風ふき・雨ふり、内裏天火にやけあがつて大王並に物部の大連・蘇我の臣・三人共に疫病あり・きるがごとく・やくがごとし、大連は終に寿絶えぬ・蘇我と王とは・からくして蘇生す、而れども仏法を用ゆることなくして十九年すぎぬ。

第三十一代の敏達天皇は欽明第二の太子・治十四年なり左右の両臣は一は物部の大連が子にて弓削の守屋・父のあとをついで大連に任ず蘇我の宿禰の子は蘇我の馬子と云云、此の王の御代に聖徳太子生給へり・用明の御子・敏達のをいなり御年二歳の二月・東に向つて無名の指を開いて南無仏と唱へ給へば御舎利・掌にあり、是れ日本国の釈迦念仏の始めなり、太子八歳なりしに八歳の太子云く「西国の聖人・釈迦牟尼仏の遺像末世に之を尊めば則ち禍を銷し・福を蒙る・之を蔑れば則ち災を招き寿を縮む」等云云、大連物部の弓削・宿禰の守屋等いかりて云く「蘇我は勅宣を背きて他国の神を礼す」等云云、又疫病未だ息まず人民すでにたえぬべし、弓削守屋又此れを間奏す云云、勅宣に云く「蘇我の馬子仏法を興行す宜く仏法を卻ぞくべし」等云云、此に守屋中臣の臣勝海大連等両臣と、寺に向つて堂塔を切たうし仏像を・やきやぶり、寺には火をはなち僧尼の袈裟をはぎ笞をもつてせむ・又天皇並に守屋馬子等疫病す、其の言に云く「焼くがごとし・きるがごとし」又瘡をこる・はうそうといふ、馬子歎いて云く「尚三宝を仰がん」と・勅宣に云く「汝独り行え但し余人を断てよ」等云云、馬子欣悦し精舎を造りて三宝を崇めぬ。

天皇は終八月十五日・崩御云云、此の年は太子は十四なり第三十二代・用明天皇の治二年・欽明の太子・聖徳太