Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法蓮抄  (3/15) 人中には転輪聖王・第一なり
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れて候、何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。

問うて云く末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に堕つるや、答えて云く法華経の第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん一劫を具足して劫尽きなば復死し展転して無数劫に至らん」等云云、此の大地の下・五百由旬を過ぎて炎魔王宮あり、その炎魔王宮より下・一千五百由旬が間に八大地獄並びに一百三十六の地獄あり、其の中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処・八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり、今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり、法華経の第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て乃至持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云、妙楽大師云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養する有らん者は福十号に過ぐ」等云云、夫れ人中には転輪聖王・第一なり此の輪王出現し給うべき前相として大海の中に優曇華と申す大木生いて華さき実なる、金輪王出現して四天の山海を平になす大地は緜の如くやはらかに大海は甘露の如くあまく大山は金山・草木は七宝なり、此の輪王須臾の間に四天下をめぐる、されば天も守護し鬼神も来つてつかへ竜王も時に随つて雨をふらす、劣夫なんども・これに従ひ奉れば須臾に四天下をめぐる、是れ偏に転輪王の十善の感得せる大果報なり、毘沙門等の四大天王は又これには似るべくもなき四天下の自在の大王なり、帝釈は忉利天の主・第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す、此れは上品の十善戒・無遮の大善の所感なり、大梵天王は三界の天尊・色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ三千大千界を手ににぎる、有漏の禅定を修行せる上に慈・悲・喜・捨の四無量心を修行せる人なり、声聞と申して舎利弗・迦葉等は二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし三界の


見思を断尽し水火に自在なり故に梵王と帝釈とを眷属とせり、縁覚は声聞に似るべくもなき人なり仏と出世をあらそふ人なり、昔猟師ありき飢えたる世に利吁と申す辟支仏にひえの飯を一盃供養し奉りて彼の猟師・九十一劫が間・人中・天上の長者と生る、今生には阿那律と申す天眼第一の御弟子なり、此れを妙楽大師釈して云く「稗飯軽しと雖も所有を尽し及び田勝るるを以ての故に勝るる報を得る」等云云、釈の心はひえの飯は軽しといへども貴き辟支仏を供養する故にかかる大果報に度度生るとこそ書かれて候へ、又菩薩と申すは文殊・弥勒等なり、此の大菩薩等は彼の辟支仏に似るべからざる大人なり、仏は四十二品の無明と申す闇を破る妙覚の仏なり、八月十五夜の満月のごとし、此の菩薩等は四十一品の無明をつくして等覚の山の頂にのぼり十四夜の月のごとし、仏と申すは上の諸人には百千万億倍すぐれさせ給へる大人なり、仏には必ず三十二相あり其の相と申すは梵音声・無見頂相・肉髺相・白毫・乃至千輻輪相等なり、此の三十二相の中の一相をば百福を以て成じ給へり、百福と申すは仮令大医ありて日本国・漢土・五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・乃至一閻浮提・四天下・六欲天・乃至三千大千世界の一切衆生の眼の盲たるを本の如く一時に開けたらんほどの大功徳を一つの福として此の福百をかさねて候はんを以て三十二相の中の一相を成ぜり、されば此の一相の功徳は三千大千世界の草木の数よりも多く四天下の雨の足よりもすぎたり、設い壊劫の時僧佉陀と申す大風ありて須弥山を吹き抜いて色究竟天にあげて・かへつて微塵となす大風なり、然れども仏の御身の一毛をば動かさず仏の御胸に大火あり平等大慧・大智光明・火坑三昧と云う、涅槃の時は此の大火を胸より出して一身を焼き給いしかば六欲・四海の天神・竜衆等・仏を惜み奉る故にあつまりて大雨を下し三千の大地を水となし須弥は流るといへども此の大火はきへず、仏にはかかる大徳ましますゆへに阿闍世王は十六大国の悪人を集め一四天下の外道をかたらひ提婆を師として無量の悪人を放ちて仏弟子をのりうち殺害せしのみならず、賢王にて・とがもなかりし父の大王を一尺の釘をもつて七処までうちつけ、はつ


けにし生母をば王のかんざしをきり刀を頭にあてし重罪のつもりに悪瘡七処に出でき、三七日を経て三月の七日に大地破れて無間地獄に堕ちて一劫を経べかりしかども仏の所に詣で悪瘡いゆるのみならず無間地獄の大苦をまぬかれ四十年の寿命延びたりき、又耆婆大臣も御つかひなりしかば炎の中に入つて瞻婆長者が子を取り出したりき、之を以て之を思うに一度も仏を供養し奉る人はいかなる悪人女人なりとも成仏得道疑無し、提婆には三十相あり二相かけたり所謂白毫と千輻輪となり、仏に二相劣りたりしかば弟子等軽く思いぬべしとて螢火をあつめて眉間につけて白毫と云ひ千輻輪には鍛冶に菊形をつくらせて足に付けて行くほどに足焼て大事になり結句死せんとせしかば仏に申す、仏御手を以てなで給いしかば苦痛さりき、ここにて改悔あるべきかと思いしにさはなくして瞿曇が習ふ医師はこざかしかりけり又術にて有るなど云ひしなり、かかる敵にも仏は怨をなし給はず何に況や仏を一度も信じ奉る者をば争でか捨て給うべきや。

かかる仏なれば木像・画像にうつし奉るに優塡大王の木像は歩をなし摩騰の画像は一切経を説き給ふ、是れ程に貴き教主釈尊を一時二時ならず一日二日ならず一劫が間掌を合せ両眼を仏の御顔にあて頭を低て他事を捨て頭の火を消さんと欲するが如く渇して水ををもひ飢えて食を思うがごとく間無く供養し奉る功徳よりも戯論に一言継母の継子をほむるが如く心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃め供養せん功徳は彼の三業相応の信心にて一劫が間生身の仏を供養し奉るには百千万億倍すぐべしと説き給いて候、これを妙楽大師は福過十号とは書れて候なり、十号と申すは仏の十の御名なり十号を供養せんよりも末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかかれたり、妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり、已上・上の二つの法門は仏説にては候へども心えられぬ事なり争か仏を供養し奉るよりも凡夫を供養するがまさるべきや、而れども是を妄語と云はんとすれば釈迦如来の金言を疑い多宝仏の証明を軽しめ十方諸仏の舌相をやぶるになりぬべし、若し爾らば