Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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御義口伝巻上  (15/43) 従仏とは日蓮に従う類い等の事なり
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諸疑悔とは是れ意の喜を結すと。

御義口伝に云く身意泰然とは煩悩即菩提生死即涅槃なり、身とは生死即涅槃なり意とは煩悩即菩提なり従仏とは日蓮に従う類い等の事なり口の喜とは南無妙法蓮華経なり意の喜とは無明の惑障無き故なり、爰を以て之を思うに此の文は一心三観一念三千我等が即身成仏なり方便の教は泰然に非ず安穏に非ざるなり行於険逕多留難故の教なり。

第四 得仏法分の事

御義口伝に云く仏法の分とは初住一分の中道を云うなり、迹門初住本門二住已上と云う事は此の分の字より起るなり、所詮此の分の一字は一念三千の法門なり其の故は地獄は地獄の分で仏果を証し乃至三千の諸法己己の当体の分で仏果を証したるなり真実の我等が即身成仏なり、今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱うる分で仏果を証したるなり、分とは権教は無得道・法華経は成仏と分つと意得可きなり、又云く分とは本門寿量品の意なり己己本分の分なり、惣じて迹門初住分証と云うは教相なり真実は初住分証の処にて一経は極りたるなり。

第五 而自廻転の事

記の五に云く或は大論の如し経に而自廻転と云うは身子の得記を聞きて法性自然にして転じ因果依正自他悉く転ずるを表すと。

御義口伝に云く草木成仏の証文に而自廻転の文を出すなり是れ一念三千の依正体一の成仏を説き極めたるなり、草木成仏の証人とは日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るを指すなり、廻転とは題目の五字なり自とは我等行者の事なり記の五の釈能く能く之を思うべし云云。

第六 一時倶作の事

御義口伝に云く一時とは末法の一時なり倶作とは南無妙法蓮華経なり倶とは畢竟住一乗なり、今日蓮等の類い


の所作には題目の五字なり余行を交えざるなり、又云く十界の語言は一返の題目を倶作したり、是れ豈感応に非ずや。

第七 以譬喩得解の事

止観の五に云く智とは譬に因るに斯の意徴し有りと。

御義口伝に云く此の文を以て鏡像円融の三諦の事を伝うるなり、惣じて鏡像の譬とは自浮自影の鏡の事なり此の鏡とは一心の鏡なり、惣じて鏡に付て重重の相伝之有り所詮鏡の能徳とは万像を浮ぶるを本とせり妙法蓮華経の五字は万像を浮べて一法も残る物之無し、又云く鏡に於て五鏡之れ有り妙の鏡には法界の不思議を浮べ・法の鏡には法界の体を浮べ・蓮の鏡には法界の果を浮べ・華の鏡には法界の因を浮べ・経の鏡には万法の言語を浮べたり、又云く妙の鏡には華厳を浮べ・法の鏡には阿含を浮べ・蓮の鏡には方等を浮べ・華の鏡には般若を浮べ・経の鏡には法華を浮ぶるなり、順逆次第して意得可きなり、我等衆生の五体五輪妙法蓮華経と浮び出でたる間宝塔品を以て鏡と習うなり、信謗の浮び様能く能く之を案ず可し自浮自影の鏡とは南無妙法蓮華経是なり云云。

第八 唯有一門の事

文句の五に云く唯有一門とは上の以種種法門宣示於仏道に譬う、門に又二あり宅門と車門となり宅とは生死なり門とは出ずる要路なり、此は方便教の詮なり車とは大乗の法なり門とは円教の詮なりと。

御義口伝に云く一門とは法華経の信心なり車とは法華経なり牛とは南無妙法蓮華経なり宅とは煩悩なり自身法性の大地を生死生死と転ぐり行くなり云云。

第九 今此三界等の事

文句の五に云く次に今此三界より下・第二に一行半は上の所見諸衆生為生老病死之所焼煮を頌して第二の所見・火の譬を合す、唯我一人より下・第三に半偈は上の仏見此已便作是念を頌して、驚入火


宅を合するなりと。

御義口伝に云く此の文は一念三千の文なり一念三千の法門は迹門には生陰二千の世間を明し本門には国土世間を明すなり、又云く今此三界の文は国土世間なり其中衆生の文は五陰世間なり而今此処多諸患難唯我一人の文は衆生世間なり、又云く今此三界は法身如来なり其中衆生悉是吾子は報身如来なり而今此処等は応身如来なり。

       信解品六箇の大事

第一 信解品の事

記の六に云く正法華には信楽品と名く其の義通ずと雖も楽は解に及ばず今は領解を明かす何を以てか楽と云わんや。

御義口伝に云く法華一部廿八品の題号の中に信解の題号此の品に之れ有り、一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり其の故は信は無疑曰信とて疑惑を断破する利剣なり解とは智慧の異名なり信は価の如く解は宝の如し三世の諸仏の智慧をかうは信の一字なり智慧とは南無妙法蓮華経なり、信は智慧の因にして名字即なり信の外に解無く解の外に信無し信の一字を以て妙覚の種子と定めたり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と信受領納する故に無上宝聚不求自得の大宝珠を得るなり信は智慧の種なり不信は堕獄の因なり、又云く信は不変真如の理なり其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり解は随縁真如なり自受用智を云うなり、文句の九に云く疑い無きを信と曰い明了なるを解と曰うと、文句の六に云く中根の人譬喩を説くを聞きて、初めて疑惑を破して大乗の見道に入る故に名けて信と為す進んで大乗の修道に入る故に名けて解と為す、記の六に云く大を以て之に望むるに乃ち両字を分ちて以て二道に属す疑を破するが故に信なり進んで入るを解と名く、信は二道に通じ解は唯修に在り故に