に露しげきやうにて・さばせかいにとどめをきしをさなきものなんどのゆくへきかまほし。
あの蘇武が胡国に十九年ふるさとの妻と子との・こひしさに雁の足につけしふみ、安部の中麻呂が漢土にて日本へかへされざりし時・東にいでし月をみてかのかすがのの月よと・ながめしも身にあたりてこそ・おはすらめ。
しかるに法華経の題目をつねは・となへさせ給へば此の妙の文じ御つかひに変ぜさせ給い・或は文殊師利菩薩或は普賢菩薩或は上行菩薩或は不軽菩薩等とならせ給うなり、譬えばちんしがかがみのとりの・つねにつげしがごとく蘇武がめのきぬたのこえの・きこえしがごとく・さばせかいの事を冥途につげさせ給うらん、又妙の文字は花のこのみと・なるがごとく半月の満月となるがごとく変じて仏とならせ給う文字なり。
されば経に云く「能く此の経を持つは則ち仏身を持つなり」と、天台大師の云く「一一文文是れ真仏なり」等云云、妙の文字は三十二相・八十種好・円備せさせ給う釈迦如来にておはしますを・我等が眼つたなくして文字とは・みまいらせ候なり、譬へばはちすの子の池の中に生いて候がやうに候はちすの候をとしよりて候人は眼くらくしてみず、よるはかげの候をやみにみざるがごとし、されども此の妙の字は仏にておはし候なり、又此の妙の文字は月なり日なり星なりかがみなり衣なり食なり花なり大地なり大海なり、一切の功徳を合せて妙の文字とならせ給う、又は如意宝珠のたまなり、かくのごとく・しらせ給うべし、くはしくは又又申すべし。
五月四日 日蓮花押
はわき殿申させ給へ
窪尼御前御返事
弘安三年六月 五十九歳御作
仏の御弟子の中にあなりちと申せし人はこくぼん王の御子いえにたからを・みてて・おはしき、のちに仏の御でしとなりては天眼第一のあなりちとて三千大千世界を御覧ありし人、法華経の座にては普明如来とならせ給う、そのさきのよの事をたづぬれば・ひえのはんを辟支仏と申す仏の弟子にくやうせしゆへなり、いまの比丘尼はあわのわさごめ山中にをくりて法華経にくやうしまいらせ給う、いかでか仏にならせ給はざるべき、恐恐謹言。
六月二十七日 日蓮花押
くぼの尼御前御返事
窪尼御前御返事
弘安四年十二月 六十歳御作
しなじなのものをくり給て候。
善根と申すは大なるによらず又ちいさきにもよらず・国により人により時により・やうやうにかわりて候、譬へばくそをほして・つきくだき・ふるいてせんだんの木につくり・又女人・天女・仏につくりまいらせて候へども火をつけて・やき候へばべちの香なし・くそくさし、そのやうに・ものをころし・ぬすみをしてそのはつををとりて功徳善根をして候へども・かへりて悪となる。
須達長者と申せし人は月氏第一の長者ぎをん精舎をつくりて仏を入れまいらせたりしかども彼の寺焼けてあと
なし、この長者もといをを・ころしてあきなへて長者となりしゆへに・この寺つゐにうせにき、今の人人の善根も又かくのごとく・大なるやうなれども・あるひは・いくさをして所領を給或はゆへなく民をわづらはして・たからをまうけて善根をなす、此等は大なる仏事とみゆれども仏にもならざる上其の人人あともなくなる事なり。
又人をも・わづらはさず我が心もなをしく我とはげみて善根をして候も仏にならぬ事もあり、いはくよきたねをあしき田にうえぬれば・たねだにもなき上かへりて損となる、まことの心なれども供養せらるる人だにも・あしければ功徳とならず、かへりて悪道におつる事候。
此れは日蓮を御くやうは候はず法華経の御くやうなれば釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏に此の功徳はまかせまいらせ候、抑今年の事は申しふりて候上当時はとしのさむき事生れて已来いまだおぼへ候わず、ゆきなんどのふりつもりて候事おびただし、心ざしある人もとぶらひがたし、御をとづれをぼろげの御心ざしにあらざるか、恐恐謹言。
十二月二十七日 日蓮花押
くぼの尼御前御返事
三沢御房御返事
文永十二年 五十四歳御作
与 三沢小次郎
佐渡の国の行者数多此の所まで下向ゆへに今の法門説き聞かせ候えば未来までの仏種になる事是れ皆釈尊の法恩ありがたし、越後にて此の歌詠じ候ゆへ書き送り候なり。
おのづから・よこしまに・降雨はあらじ・風こそ夜の・窻をうつらめ。
二十一日