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日蓮大聖人・池田大作

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祈祷抄  (8/12) されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せ…
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やうやう心ぼそくなりし程に「郤後三月当般涅槃」と唱えさせ給いし事こそ心ぼそく耳をどろかしかりしかば諸菩薩二乗人天等ことごとく法華経を聴聞して仏の恩徳心肝にそみて、身命をも法華経の御ために投て仏に見せまいらせんと思いしに・仏の仰の如く若し涅槃せさせ給はば・いかに・あさましからんと胸さはぎして・ありし程に・仏の御年・満八十と申せし二月十五日の寅卯の時・東天竺・舎衛国・倶尸那城・跌提河の辺にして仏御入滅なるべき由の御音・上は有頂・横には三千大千界まで・ひびきたりしこそ目もくれ・心もきえはてぬれ、五天竺・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国等の衆生・一人も衣食を調へず・上下をきらはず、牛馬・狼狗・鵰鷲・蟁蝱等の五十二類の一類の数・大地微塵をも・つくしぬべし・況や五十二類をや、此の類皆華香衣食をそなへて最後の供養とあてがひき、一切衆生の宝の橋おれなんとす・一切衆生の眼ぬけなんとす一切衆生の父母・主君・師匠死なんとすなんど申すこえ・ひびきしかば・身の毛のいよ立のみならず・涙を流す、なんだを・ながすのみならず・頭をたたき胸ををさへ音も惜まず叫びしかば・血の涙・血のあせ・倶尸那城に大雨よりも・しげくふり・大河よりも多く流れたりき、是れ偏えに法華経にして仏になりしかば仏の恩の報ずる事かたかりしなり。

かかるなげきの庭にても法華経の敵をば舌を・きるべきよし・座につらなるまじきよしののしり侍りき、迦葉童子菩薩は法華経の敵の国には霜雹となるべしと誓い給いき、爾の時仏は臥よりをきて・よろこばせ給いて善哉善哉と讃め給いき、諸菩薩は仏の御心を推して法華経の敵をうたんと申さば、しばらくも・いき給いなんと思いて一一の誓は・なせしなり、されば諸菩薩・諸天人等は法華経の敵の出来せよかし仏前の御誓はたして・釈迦尊並びに多宝仏・諸仏・如来にも・げに仏前にして誓いしが如く、法華経の御ためには名をも身命をも惜まざりけりと思はれまいらせんと・こそ・おぼすらめ

いかに申す事は・をそきやらん、大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも・潮のみちひぬ事はあり


とも日は西より出づるとも・法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず、法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等・二聖・二天・十羅刹等・千に一も来つてまほり給はぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなづり奉り下は九界をたぼらかす失あり、行者は必ず不実なりとも・智慧はをろかなりとも・身は不浄なりとも・戒徳は備へずとも・南無妙法蓮華経と申さば必ず守護し給うべし、袋きたなしとて金を捨る事なかれ・伊蘭をにくまば栴檀あるべからず、谷の池を不浄なりと嫌はば蓮を取らざるべし、行者を嫌い給はば誓を破り給いなん、正像既に過ぎぬれば持戒は市の中の虎の如し・智者は麟角よりも希ならん、月を待つまでは灯を憑べし宝珠のなき処には金銀も宝なり、白烏の恩をば黒烏に報ずべし・聖僧の恩をば凡僧に報ずべし、とくとく利生をさづけ給へと強盛に申すならば・いかでか祈りのかなはざるべき。

問うて云く上にかかせ給ふ道理・文証を拝見するに・まことに日月の天に・おはしますならば大地に草木のおふるならば、昼夜の国土にあるならば大地だにも反覆せずば大海のしほだにもみちひるならば、法華経を信ぜん人現世のいのり後生の善処は疑いなかるべし、然りと雖も此の二十余年が間の天台・真言等の名匠・多く大事のいのりをなすに・はかばかしくいみじきいのりありともみえず、尚外典の者どもよりもつたなきやうにうちをぼへて見ゆるなり、恐らくは経文のそらごとなるか・行者のをこなひのをろかなるか・時機のかなはざるかと、うたがはれて後生もいかんとをぼう。

それは・さてをきぬ・御房は山僧の御弟子とうけ給はる父の罪は子にかかり・師の罪は弟子にかかるとうけ給はる、叡山の僧徒の薗城・山門の堂塔・仏像・経巻・数千万をやきはらはせ給うが、ことにおそろしく世間の人人もさわぎうとみあへるは・いかに・前にも少少うけ給はり候ぬれども今度くわしく・ききひらき候はん、但し不審なることは・かかる悪僧どもなれば三宝の御意にも・かなはず天地にも・うけられ給はずして、祈りも叶はざるやらん


と・をぼへ候はいかに、答て云くせんぜんも少少申しぬれども今度又あらあら申すべし、日本国にをいては此の事大切なり、これをしらざる故に多くの人口に罪業をつくる、先づ山門はじまりし事は此の国に仏法渡つて二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり、当時の京都は昔聖徳太子・王気ありと相し給いしかども・天台宗の渡らん時を待ち給いし間・都をたて給はず、又上宮太子の記に云く「我が滅後二百余年に仏法日本に弘まる可し」云云、伝教大師・延暦年中に叡山を立て給ふ桓武天皇は平の京都をたて給いき、太子の記文たがはざる故なり、されば山門と王家とは松と栢とのごとし、蘭と芝とににたり、松かるれば必ず栢かれらんしぼめば又しばしぼむ、王法の栄へは山の悦び・王位の衰へは山の歎きと見えしに・既に世・関東に移りし事なにとか思食しけん。

秘法四十一人の行者・承久三年辛巳四月十九日京夷乱れし時関東調伏の為め隠岐の法皇の宣旨に依つて始めて行はれ御修法十五壇の秘法、一字金輪法天台座主慈円僧正・伴僧十二口・関白殿基通の御沙汰・四天王法成興寺の宮僧正・僧伴八口広瀬殿に於て修明門院の御沙汰・不動明王法成宝僧正・伴僧八口・花山院禅門の御沙汰・大威徳法観厳僧正・伴僧八口・七条院の御沙汰・転輪聖王法成賢僧正・伴僧八口・同院の御沙汰・十壇大威徳法伴僧六口・覚朝僧正・俊性法印・永信法印・豪円法印・猷円僧都・慈賢僧正・賢乗僧都・仙尊僧都・行遍僧都・実覚法眼・已上十人大旨本坊に於て之を修す・・如意輪法妙高院僧正・伴僧八口宜秋門院の御沙汰・毘沙門法常住院僧正・三井・伴僧六口・資賃の御沙汰・御本尊一日之を造らせらる・調伏の行儀は如法愛染王法仁和寺御室の行法・五月三日之れを始めて紫宸殿に於て二七日之を修せらる・・仏眼法大政僧正・三七日之を修す・・六字法快雅僧都・愛染王法観厳僧正・七日之を修す・不動法勧修寺の僧正・伴僧八口・皆僧綱・大威徳法安芸僧正・金剛童子法同人・已上十五壇の法了れり、五月十五日伊賀太郎判官光季京にして討たれ、同十九日鎌倉に聞え、同二十一日大勢軍兵上ると聞えしかば残る所の法・六月八日之れを行ひ始めらる、尊星王法覚朝僧正・太元法蔵有僧都・五壇法大政僧正・永信法印・全尊僧都・猷円僧都・行遍僧都・守護経法御室之を行はせらる我朝二度之を行う・五月二十一日武蔵の守殿が海道より上洛し甲斐源氏