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日蓮大聖人・池田大作

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庵室修復書 
1542

金ぞく王は、いさごを金となし給いき。

今のむぎは法華経のもんじなり、又は女人の御ためには・かがみとなり・身のかざりとなるべし、男のためには・よろひとなり・かぶととなるべし、守護神となりて弓箭の第一の名をとるべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経、恐恐謹言。

このよの中は・いみじかりし時は何事かあるべきとみえしかども・当時はことにあぶなげに・みえ候ぞ、いかなる事ありともなげかせ給うべからず、ふつとおもひきりてそりやうなんども・たがふ事あらば・いよいよ悦びとこそおもひて・うちうそぶきて・これへわたらせ給へ、所地しらぬ人もあまりにすぎ候ぞ、当時つくしへ・むかひて・なげく人人は・いかばかりとか・おぼす、これは皆日蓮を・かみのあなづらせ給いしゆへなり。

  七月二日                      日蓮花押

   南条殿御返事

庵室修復書

                    建治三年 五十六歳御作

去文永十一年六月十七日に・この山のなかに・きをうちきりて・かりそめにあじちをつくりて候いしが・やうやく四年がほど・はしらくちかきかべをち候へども・なをす事なくて・よるひを・とぼさねども月のひかりにて聖教をよみまいらせ・われと御経をまきまいらせ候はねども・風をのづから・ふきかへし・まいらせ候いしが、今年は十二のはしら四方にかふべをなげ・四方のかべは・一そにたうれぬ、うだいたもちがたければ・月はすめ雨はとどまれと・はげみ候いつるほどに・人ぶなくして・がくしやうどもをせめ・食なくして・ゆきをもちて命をたすけて候ところに・さきに・うへのどのよりいも二駄これ一だは・たまにもすぎ。


大白牛車書

                    建治三年十二月十七日 五十六歳御作

                    与 南条七郎次郎

夫れ法華経第二の巻に云く「此の宝乗に乗り直ちに道場に至る」と云云、日蓮は建長五年四月二十八日初めて此の大白牛車の一乗法華の相伝を申し顕はせり、而るに諸宗の人師等・雲霞の如くよせ来り候、中にも真言・浄土・禅宗等・蜂の如く起りせめたたかふ、日蓮大白牛車の牛の角最第一なりと申してたたかふ、両の角は本迹二門の如く二乗作仏・久遠実成是なり、すでに弘法大師は法華最第一の角を最第三となをし・一念三千・久遠実成・即身成仏は法華に限れり・是をも真言の経にありとなをせり、かかる謗法の族を責めんとするに返つて弥怨をなし候、譬えば角を・なをさんとて牛をころしたるが如くなりぬべく候ひしかども・いかでさは候べき。

抑此の車と申すは本迹二門の輪を妙法蓮華経の牛にかけ、三界の火宅を生死生死とぐるり・ぐるりとまはり候ところの車なり、ただ信心のくさびに志のあぶらをささせ給いて霊山浄土へまいり給うべし、又心王は牛の如し・生死は両の輪の如し、伝教大師云く「生死の二法は一心の妙用・有無の二道は本覚の真徳なり」云云、天台云く「十如は只是れ乃至今境は是れ体」と云云、此の文釈能能案じ給うべし、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

  十二月十七日                    日蓮花押


上野殿御返事

                   建治四年二月二十五日 五十七歳御作 

                   与 南条七郎次郎

蹲鴟・くしがき・焼米・栗・たかんな・すづつ給び候い了んぬ。

月氏に阿育大王と申す王をはしき、一閻浮提四分の一を・たなごころににぎり・竜王をしたがへて雨を心にまかせ・鬼神をめしつかひ給いき、始は悪王なりしかども後には仏法に帰し・六万人の僧を日日に供養し・八万四千の石の塔をたて給う、此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさなき人あり、土の餅を仏に供養し給いて一百年の内に大王と生れたり、仏はいみじしといへども法華経にたいしまいらせ候へば・螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり、仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや、土のもちゐを・まいらせて・かかる不思議あり・いわうやすずのくだ物をや、かれはけかちならず・いまはうへたる国なり、此をもつて・をもふに釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき。

抑今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・もへたつばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たいせず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし。

まことやらむ・いえの内に・わづらひの候なるは・よも鬼神のそゐには候はじ、十らせち女の信心のぶんざいを御心みぞ候らむ、まことの鬼神ならば法華経の行者をなやまして・かうべをわらんとをもふ鬼神の候べきか、又釈迦仏・法華経の御そら事の候べきかと・ふかくをぼしめし候へ、恐恐謹言。

  二月廿五日                     日蓮花押

   御返事