Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

撰時抄  (6/37) 正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども或…
261

の四五人、前の五百余年が間は大乗経の法門少少・出来せしかども・とりたてて弘通し給はず、但小乗経を面としてやみぬ、已上大集経の先五百年解脱堅固の時なり、正法の後六百年・已後一千年が前・其の中間に馬鳴菩薩・毘羅尊者・竜樹菩薩・提婆菩薩・羅睺尊者・僧佉難提・僧伽耶奢・鳩摩羅駄・闍夜那・盤陀・摩奴羅・鶴勒夜那・師子等の十余人の人人始には外道の家に入り次には小乗経をきわめ後には諸大乗経をもて諸小乗経をさんざんに破し失ひ給いき此等の大士等は諸大乗経をもつて諸小乗経をば破せさせ給いしかども諸大乗経と法華経の勝劣をば分明にかかせ給はず、設い勝劣をすこしかかせ給いたるやうなれども本迹の十妙・二乗作仏・久遠実成・已今当の妙・百界千如・一念三千の肝要の法門は分明ならず、但或は指をもつて月をさすがごとくし或は文にあたりてひとはし計りかかせ給いて化導の始終・師弟の遠近・得道の有無はすべて一分もみへず、此等は正法の後の五百年・大集経の禅定堅固の時にあたれり、正法一千年の後は月氏に仏法充満せしかども或は小をもて大を破し或は権経をもつて実経を隠没し仏法さまざまに乱れしかば得道の人やふやくすくなく仏法につけて悪道に堕る者かずをしらず、正法一千年の後・像法に入つて一十五年と申せしに仏法東に流れて漢土に入りにき、像法の前五百年の内・始の一百余年が間は漢土の道士と月氏の仏法と諍論していまだ事さだまらず設い定まりたりしかども仏法を信ずる人の心いまだふかからず、而るに仏法の中に大小・権実・顕密をわかつならば聖教一同ならざる故・疑をこりてかへりて外典とともなう者もありぬべし、これらのをそれ・あるかのゆへに摩騰・竺蘭は自は知つて而も大小を分けず権実をいはずしてやみぬ、其の後・魏・晉・斉・宋・梁の五代が間・仏法の内に大小・権実・顕密をあらそひし程にいづれこそ道理ともきこえずして上み一人より下も万民にいたるまで不審すくなからず南三・北七・と申して仏法十流にわかれぬ所謂南には三時・四時・五時・北には五時・半満・四宗・五宗・六宗、二宗の大乗・一音等・各各義を立て辺執水火なり、しかれども大綱は一同なり所謂一代聖教の中には華厳経第一・涅槃経第二・法華経第三なり法華経は阿含・般若・浄


名・思益等の経経に対すれば真実なり了義経・正見なりしかりといへども涅槃経に対すれば無常教・不了義経・邪見の経等云云、漢より四百余年の末へ五百年に入つて陳隋二代に智顗と申す小僧一人あり後には天台智者大師と号したてまつる、南北の邪義をやぶりて一代聖教の中には法華経第一・涅槃経第二・華厳経第三なり等云云、此れ像法の前・五百歳・大集経の読誦多聞堅固の時にあひあたれり、像法の後五百歳は唐の始・太宗皇帝の御宇に玄奘三蔵・月支に入つて十九年が間、百三十箇国の寺塔を見聞して多くの論師に値いたてまつりて八万聖教・十二部経の淵底を習いきわめしに其の中に二宗あり所謂法相宗・三論宗なり、此の二宗の中に法相大乗は遠くは弥勒・無著近くは戒賢論師に伝えて漢土にかへりて太宗皇帝にさづけさせ給う、此の宗の心は仏教は機に随うべし一乗の機のためには三乗方便・一乗真実なり所謂法華経等なり、三乗の機のためには三乗真実・一乗方便・所謂深密経・勝鬘経等此れなり、天台智者等は此の旨を弁えず等云云、而も太宗は賢王なり当時名を一天にひびかすのみならず三皇にもこえ五帝にも勝れたるよし四海にひびき漢土を手ににぎるのみならず高昌・高麗等の一千八百余国をなびかし内外を極めたる王ときこへし賢王の第一の御帰依の僧なり、天台宗の学者の中にも頭をさしいだす人一人もなし、而れば法華経の実義すでに一国に隠没しぬ、同じき太宗の太子高宗・高宗の継母則天皇后の御宇に法蔵法師といふ者あり法相宗に天台宗のをそわるるところを見て前に天台の御時せめられし華厳経を取出して一代の中には華厳第一・法華第二・涅槃第三と立てけり、太宗第四代・玄宗皇帝の御宇・開元四年・同八年に西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵・大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ、此の宗の立義に云く教に二種あり一には釈迦の顕教・所謂華厳・法華等、二には大日の密教・所謂大日経等なり、法華経は顕教の第一なり此の経は大日の密教に対すれば極理は少し同じけれども事相の印契と真言とはたえてみへず三密相応せざれば不了義経等云云、已上法相・華厳・真言の三宗一同に天台法華宗をやぶれども天台大師程の智人・法華宗の中になかりけ


るかの間内内はゆはれなき由は存じけれども天台のごとく公場にして論ぜられざりければ上国王大臣・下一切の人民にいたるまで皆仏法に迷いて衆生の得道みなとどまりけり、此等は像法の後の五百年の前二百余年が内なり、像法に入つて四百余年と申しけるに百済国より一切経並びに教主釈尊の木像・僧尼等・日本国にわたる、漢土の梁の末・陳の始にあひあたる、日本には神武天王よりは第三十代・欽明天王の御宇なり、欽明の御子・用明の太子に上宮王子・仏法を弘通し給うのみならず並びに法華経・浄名経・勝鬘経を鎮護国家の法と定めさせ給いぬ、其の後・人王第三十七代に孝徳天王の御宇に三論宗・成実宗を観勒僧正・百済国よりわたす、同御代に道昭法師・漢土より法相宗・倶舎宗をわたす、人王第四十四代・元正天王の御宇に天竺より大日経をわたして有りしかども而も弘通せずして漢土へかへる此の僧をば善無畏三蔵という、人王第四十五代に聖武天皇の御宇に審祥大徳・新羅国より華厳宗をわたして良弁僧正・聖武天王にさづけたてまつりて東大寺の大仏を立てさせ給えり同御代に大唐の鑒真和尚・天台宗と律宗をわたす、其の中に律宗をば弘通し小乗の戒場を東大寺に建立せしかども法華宗の事をば名字をも申し出させ給はずして入滅し了んぬ、其後・人王第五十代・像法八百年に相当つて桓武天王の御宇に最澄と申す小僧出来せり後には伝教大師と号したてまつる、始には三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗並びに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給いし程に我と立て給える国昌寺・後には比叡山と号す、此にして六宗の本経・本論と宗宗の人師の釈とを引き合せて御らむありしかば彼の宗宗の人師の釈・所依の経論に相違せる事多き上僻見多多にして信受せん人皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給う其の上法華経の実義は宗宗の人人・我も得たり我も得たりと自讃ありしかども其の義なし、此れを申すならば喧嘩出来すべしもだして申さずば仏誓にそむきなんとをもひわづらはせ給いしかども終に仏の誡ををそれて桓武皇帝に奏し給いしかば帝・此の事ををどろかせ給いて六宗の碩学に召し合させ給う、彼の学者等・始めは慢幢・山のごとし悪心・毒蛇のやうなりしかども終に王の前にしてせめ