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日蓮大聖人・池田大作

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聖愚問答抄 下  (6/14) 南には泉の色・白たへにしてかの玉川の卯の華…
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知りながら是をいましめざらんや、其の如く法門の道理を存じて火・血・刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや、身をもなげ命をも捨つべし諫めても・あきたらず歎きても限りなし、今世に眼を合する苦み猶是を悲む況や悠悠たる冥途の悲み豈に痛まざらんや恐れても恐るべきは後世・慎みても慎むべきは来世なり、而るを是非を論ぜず親の命に随ひ邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云う事愚癡の前には忠孝に似たれども賢人の意には不忠不孝・是に過ぐべからず。

されば教主釈尊は転輪聖王の末・師子頬王の孫・浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども生死無常の理をさとり出離解脱の道を願つて世を厭ひ給しかば浄飯大王是を歎き四方に四季の色を顕して太子の御意を留め奉らんと巧み給ふ、先づ東には霞たなびくたえまより・かりがね・こしぢに帰り窻の梅の香・玉簾の中にかよひ・でうでう・たる花の色・ももさへづりの鶯・春の気色を顕はせり、南には泉の色・白たへにしてかの玉川の卯の華信太の森のほととぎす夏のすがたを顕はせり、西には紅葉常葉に交ればさながら錦をおり交え荻ふく風・閑かにして松の嵐・ものすごし過ぎにし夏のなごりには沢辺にみゆる螢の光・あまつ空なる星かと誤り・松虫・鈴虫の声声・涙を催せり、北には枯野の色いつしか・ものうく池の汀につららゐて谷の小川も・をとさびぬ、かかるありさまを造つて御意をなぐさめ給うのみならず四門に五百人づつの兵を置いて守護し給いしかども終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半の比・車匿を召して金泥駒に鞍置かせ伽耶城を出て檀特山に入り十二年高山に薪をとり深谷に水を結んで難行苦行し給ひ三十成道の妙果を感得して三界の独尊・一代の教主と成つて父母を救ひ群生を導き給いしをばさて不孝の人と申すべきか、仏を不孝の人と云いしは九十五種の外道なり父母の命に背いて無為に入り還つて父母を導くは孝の手本なる事・仏其の証拠なるべし、彼の浄蔵・浄眼は父の妙荘厳王・外道の法に著して仏法に背き給いしかども二人の太子は父の命に背いて雲雷音王仏の御弟子となり終に父を導いて沙羅樹王仏


と申す仏になし申されけるは不孝の人と云うべきか、経文には棄恩入無為・真実報恩者と説いて今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る是れ実に恩をしれる人なりと見えたり、又主君の恩の深き事・汝よりも能くしれり汝若し知恩の望あらば深く諫め強いて奏せよ非道にも主命に随はんと云う事・佞臣の至り不忠の極りなり、殷の紂王は悪王・比干は忠臣なり政事理に違いしを見て強て諫めしかば即比干は胸を割かる紂王は比干死して後・周の王に打たれぬ、今の世までも比干は忠臣といはれ紂王は悪王といはる、夏の桀王を諫めし竜蓬は頭をきられぬ・されども桀王は悪王・竜蓬は忠臣とぞ云う主君を三度・諫むるに用ゐずば山林に交れとこそ教へたれ何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや、古の賢人・世を遁れて山林に交りし先蹤を集めて聊か汝が愚耳に聞かしめん、殷の代の太公望は皤渓と云う谷に隠る、周の代の伯夷・叔斉は首陽山と云う山に籠る、秦の綺里季は商洛山に入り漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は緜上山に隠れぬ、此等をば不忠と云うべきか愚かなり汝忠を存ぜば諫むべし孝を思はば言うべきなり。

先ず汝権教・権宗の人は多く此の宗の人は少し何ぞ多を捨て少に付くと云う事必ず多きが尊くして少きが卑きにあらず、賢善の人は希に愚悪の者は多し麒麟・鸞鳳は禽獣の奇秀なり然れども是は甚だ少し牛羊・烏鴿は畜鳥の拙卑なりされども是は転多し、必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟をすてて牛羊をとり鸞鳳を閣いて烏鴿をとるべきか、摩尼・金剛は金石の霊異なり、此の宝は乏しく瓦礫・土石は徒物の至り是は又巨多なり、汝が言の如くならば玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきかはかなし・はかなし、聖君は希にして千年に一たび出で賢佐は五百年に一たび顕る摩尼は空しく名のみ聞く麟鳳誰か実を見たるや世間出世・善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり、然れば何ぞ強ちに少きを・おろかにして多きを詮とするや土沙は多けれども米穀は希なり木皮は充満すれども布絹は些少なり、汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ。


爰に愚人席をさり袂をかいつくろいて云く誠に聖教の理をきくに人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫けるよりも希に仏法は聞き難くして一眼の亀の浮木に遇うよりも難し、今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を見聞しつ今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき、夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども仏法の為には・いまだ一骨をもすてず多生恩愛の涙は海よりも深けれども尚後世の為には一滴をも落さず、拙きが中に拙く愚かなるが中に愚かなり設ひ命をすて身をやぶるとも生を軽くして仏道に入り父母の菩提を資け愚身が獄縛をも免るべし能く能く教を示し給へ。

抑法華経を信ずる其の行相如何五種の行の中には先ず何れの行をか修すべき丁寧に尊教を聞かん事を願う、聖人示して云く汝蘭室の友に交つて麻畝の性と成る誠に禿樹禿に非ず春に遇つて栄え華さく枯草枯るに非ず夏に入つて鮮かに注ふ、若し先非を悔いて正理に入らば湛寂の潭に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし、抑仏法を弘通し群生を利益せんには先ず教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり、所以は時に正像末あり法に大小乗あり修行に摂折あり摂受の時・折伏を行ずるも非なり折伏の時・摂受を行ずるも失なり、然るに今世は摂受の時か折伏の時か先づ是を知るべし摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて邪法邪師・一人もなしといはん、此の時は山林に交つて観法を修し五種・六種・乃至十種等を行ずべきなり、折伏の時はかくの如くならず経教のおきて蘭菊に諸宗のおぎろ誉れを擅にし邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事法華涅槃に定め置き天台妙楽の解釈にも分明なり是れ仏法修行の大事なるべし、譬ば文武両道を以て天下を治るに武を先とすべき時もあり文を旨とすべき時もあり、天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし東夷・南蛮・西戎・北狄・蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべきなり、文武のよき事計りを心えて時をもしらず万邦・安堵の思をなし