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日蓮大聖人・池田大作

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南条兵衛七郎殿御書  (2/6) 法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがた…
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申さぬ人人は・先判に付いて後判をもちゐぬ者にては候まじきか、此等は仏説を信じたりげには我身も人も思いたりげに候へども仏説の如くならば不孝の者なり。

故に法華経の第二に云く「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり而も今此の処は諸の患難多し唯我一人のみ能く救護を為す復教詔すと雖も而も信受せず」等云云、此の文の心は釈迦如来は我等衆生には親なり師なり主なり、我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてはましませども親と師とには・ましまさず、ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏に・かぎりたてまつる、親も親にこそよれ釈尊ほどの親・師も師にこそよれ・主も主にこそよれ・釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ、この親と師と主との仰せをそむかんもの天神・地祗にすてられ・たてまつらざらんや、不孝第一の者なり故に雖復教詔而不信受等と説かれたり、たとひ爾前の経につかせ給いて百千万億劫・行ぜさせ給うとも・法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給はずば・不孝の人たる故に三世・十方の聖衆にもすてられ天神・地祗にもあだまれ給はんか是一

たとひ五逆・十悪・無量の悪をつくれる人も根だにも利なれば得道なる事これあり、提婆達多・鴦崛摩羅等これなり、たとひ根鈍なれども罪なければ得道なる事これあり・須利槃特等是なり、我等衆生は根の鈍なる事すりはんどくにもすぎ物のいろかたちをわきまへざる事羊目のごとし、貪瞋癡きわめてあつく十悪は日日にをかし五逆をば・おかさざれども五逆に似たる罪・又日日におかす、又十悪・五逆にすぎたる謗法は人毎にこれあり、させる語を以て法華経を謗ずる人はすくなけれども・人ごとに法華経をばもちゐず、又もちゐたるやうなれども念仏等のやうには信心ふかからず、信心ふかきものも法華経のかたきをばせめず、いかなる大善をつくり法華経を千万部読み書写し一念三千の観道を得たる人なりとも法華経の敵をだにも・せめざれば得道ありがたし、たとへば朝につかふる人の十年・二十年の奉公あれども・君の敵をしりながら奏もせず私にもあだまずば奉公皆うせて還


つてとがに行はれんが如し、当世の人人は謗法の者としろしめすべし是二

仏入滅の次の日より千年をば正法と申して持戒の人多く得道の人これあり。正法千年の後は像法千年なり・破戒の者は多く得道すくなし、像法千年の後は末法万年なり持戒もなし破戒もなし無戒の者のみ国に充満せん、而も濁世と申してみだれたる世なり、清世と申してすめる世には直繩のまがれる木をけづらするやうに非をすて是を用うるなり、正・像より五濁やうやういできたりて末法になり候へば五濁さかりにすぎて、大風の大波を起して岸を打つのみならず又波と波とをうつなり、見濁と申すは正・像やうやうすぎぬれば、わづかの邪法の一つをつたへて無量の正法をやぶり・世間の罪にて悪道におつるものよりも仏法を以て悪道に堕つるもの多しとみへはんべり。

しかるに当世は正・像二千年すぎて末法に入つて二百余年、見濁さかりにして悪よりも善根にて多く悪道に堕つべき時刻なり。悪は愚癡の人も悪としればしたがはぬ辺もあり火を水を以てけすが如し、善は但善と思ふほどに小善に付いて大悪の起る事をしらず、所以に伝教・慈覚等の聖跡あり・すたれあばるれども念仏堂にあらずといひて・すてをきて・そのかたはらにあたらしく念仏堂をつくり彼の寄進の田畠をとりて念仏堂によす、此等は像法決疑経の文の如くならば功徳すくなしとみへはべり、これらをもつてしるべし善なれども大善をやぶる小善は悪道に堕つるなるべし、今の世は末法のはじめなり、小乗経の機・権大乗経の機皆うせはてて唯実大乗経の機のみあり、小船には大石をのせず悪人・愚者は大石のごとし、小乗経並に権大乗経・念仏等は小船なり、大悪瘡の湯治等は病大なれば小治およばず、末代濁世の我等には念仏等はたとへば冬・田を作るが如し時があはざるなり是三知

国をしるべし・国に随つて人の心不定なり、たとへば江南の橘の淮北にうつされて・からたちとなる、心なき


草木すらところによる、まして心あらんもの何ぞ所によらざらん、されば玄奘三蔵の西域と申す文に天竺の国国を多く記したるに・国の習として不孝なる国もあり・孝の心ある国もあり・瞋恚のさかんなる国もあり・愚癡の多き国もあり、一向に小乗を用る国もあり・一向大乗を用る国もあり・大小兼学する国もありと見へ侍り、又一向に殺生の国・一向に偸盗の国・又穀の多き国・又粟等の多き国不定あり、抑日本国はいかなる教を習つてか生死を離るべき国ぞと勘えたるに・法華経に云く「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」等云云、此の文の心は法華経は南閻浮提の人のための有縁の経なり、弥勒菩薩の云く「東方に小国有り唯だ大機のみ有り」等云云、此の論の文の如きは閻浮提の内にも東の小国に大乗経の機あるか、肇公の記に云く「茲の典は東北の小国に有縁なり」等云云、法華経は東北の国に縁ありとかかれたり、安然和尚の云く「我が日本国皆大乗を信ず」等云云、慧心の一乗要決に云く「日本一州円機純一」等云云、釈迦如来・弥勒菩薩・須梨耶蘇摩三蔵・羅什三蔵・僧肇法師・安然和尚・慧心の先徳等の心ならば日本国は純に法華経の機なり、一句・一偈なりとも行ぜば必ず得道なるべし有縁の法なるが故なり、たとへばくろかねを磁石のすうが如し・方諸の水をまねくににたり、念仏等の余善は無縁の国なり・磁石のかねをすわず方諸の水をまねかざるが如し、故に安然の釈に云く「如実乗に非ずんば恐らくは自他を欺かん」等云云、此の釈の心は日本国の人に法華経にてなき法をさずくるもの我が身をもあざむき人をもあざむく者と見えたり、されば法は必ず国をかんがみて弘むべし、彼の国によかりし法なれば必ず此の国にもよかるべしとは思うべからず是四

又仏法流布の国においても前後を勘うべし、仏法を弘むる習い必ずさきに弘めける法の様を知るべきなり、例せば病人に薬をあたふるにはさきに服したる薬の様を知るべし、薬と薬とがゆき合いてあらそひをなし人をそんずる事あり、仏法と仏法とがゆき合いてあらそひをなして人を損ずる事のあるなり、さきに外道の法弘まれる