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日蓮大聖人・池田大作

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王舎城事  (2/2) 日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥弥国亡…
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せめて候けると承り候。

又女房の御いのりの事法華経をば疑ひまいらせ候はねども御信心やよはくわたらせ給はんずらん、如法に信じたる様なる人人も実にはさもなき事とも是にて見て候、それにも知しめされて候、まして女人の御心・風をば・つなぐとも・とりがたし、御いのりの叶い候はざらんは弓のつよくしてつるよはく・太刀つるぎにて・つかう人の臆病なるやうにて候べし、あへて法華経の御とがにては候べからず、よくよく念仏と持斎とを我もすて人をも力のあらん程はせかせ給へ、譬へば左衛門殿の人ににくまるるがごとしとこまごまと御物語り候へ、いかに法華経を御信用ありとも法華経のかたきを・とわりほどには・よもおぼさじとなり、一切の事は父母にそむき国王にしたがはざれば不孝の者にして天のせめをかうふる、ただし法華経のかたきに・なりぬれば父母・国主の事をも用ひざるが孝養ともなり国の恩を報ずるにて候。

されば日蓮は此の経文を見候しかば父母手をすりてせいせしかども師にて候し人かんだうせしかども・鎌倉殿の御勘気を二度まで・かほり・すでに頸となりしかども・ついにをそれずして候へば、今は日本国の人人も道理かと申すへんもあるやらん、日本国に国主・父母・師匠の申す事を用いずしてついに天のたすけをかほる人は日蓮より外は出しがたくや候はんずらん、是より後も御覧あれ日蓮をそしる法師原が日本国を祈らば弥弥国亡ぶべし、結句せめの重からん時・上一人より下万民まで・もとどりをわかつやつことなりほぞをくうためしあるべし、後生はさてをきぬ今生に法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天・罰し給いて皆人に・みこりさせ給へと申しつけて候、日蓮・法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし、かう申せば国主等は此の法師のをどすと思へるか、あへてにくみては申さず大慈大悲の力・無間地獄の大苦を今生にけさしめんとなり、章安大師云く「彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり」等云云、かう申すは国主の父母・一切衆生の師匠なり、事事多く候へども


留候ぬ、又麦の白米一だはしかみ送り給び候い畢んぬ。

  建治元年乙亥卯月十二日               日蓮花押

   四条金吾殿御返事

四条金吾殿御返事

態と御使喜び入つて候、又柑子五十・鵞目五貫文給び候い畢んぬ、各各御供養と云云、又御文の中に云く去る十六日に有る僧と寄合うて候時・諸法実相の法門を申し合いたりと云云、今経は出世の本懐・一切衆生皆成仏道の根元と申すも只此の諸法実相の四字より外は全くなきなり、されば伝教大師は万里の波濤をしのぎ給いて相伝しまします此の文なり、一句万了の一言とは是なり、当世・天台宗の開会の法門を申すも此の経文を悪く意得て邪義を云い出し候ぞ、只此の経を持ちて南無妙法蓮華経と唱えて正直捨方便・但説無上道と信ずるを諸法実相の開会の法門とは申すなり、其の故は釈迦仏・多宝如来・十方三世の諸仏を証人とし奉り候なり、相構えてかくの如く心得させ給いて諸法実相の四の文字を時時あぢわへ給うべし・良薬に毒をまじうる事有るべきや・うしほの中より河の水を取り出す事ありや、月は夜に出・日は昼出で給う此の事諍ふべきや、此れより後には加様に意得給いて御問答あるべし、但し細細は論難し給うべからず、猶も申さばそれがしの師にて候日蓮房に御法門候へとうち咲うて打ち返し打ち返し仰せ給うべく候。

  法門を書きつる間・御供養の志は申さず候、有り難し有り難し委くは是よりねんごろに申すべく候。

  建治元年乙亥七月二十二日              日蓮花押

   四条中務三郎左衛門尉殿御返事


瑞相御書

                    建治元年 五十四歳御作

                    与 四条金吾

夫れ天変は衆人をおどろかし地夭は諸人をうごかす、仏法華経をとかんとし給う時五瑞六瑞をげんじ給う、其の中に地動瑞と申すは大地六種に震動す六種と申すは天台大師文句の三に釈して云く「東涌西没とは東方は青・肝を主どる肝は眼を主どる西方は白・肺を主どる肺は鼻を主どる此れ眼根の功徳生じて鼻根の煩悩互に滅するを表するなり鼻根の功徳生じて眼の中の煩悩互に滅す・余方の涌没して余根の生滅を表するも亦復」云云、妙楽大師之を承けて云く「表根と言うは眼鼻已に東西を表す耳舌理として南北に対す・中央は心なり四方は身なり身四根を具す心徧く四を縁す故に心を以て身に対して涌没を為す」云云、夫十方は依報なり・衆生は正報なり譬へば依報は影のごとし正報は体のごとし・身なくば影なし正報なくば依報なし・又正報をば依報をもつて此れをつくる、眼根をば東方をもつて・これをつくる、舌は南方・鼻は西方・耳は北方・身は四方・心は中央等これを・もつて・しんぬべし、かるがゆへに衆生の五根やぶれんとせば四方中央をどろうべし・されば国土やぶれんと・するしるしには・まづ山くづれ草木かれ江河つくるしるしあり人の眼耳等驚そうすれば天変あり人の心をうごかせば地動す・抑何の経経にか六種動これなき一切経を仏とかせ給いしみなこれあり、しかれども仏法華経をとかせ給はんとて六種震動ありしかば衆も・ことにおどろき弥勒菩薩も疑い文殊師利菩薩もこたへしは諸経よりも瑞も大に久しくありしかば疑も大に決しがたかりしなり、故に妙楽の云く「何れの大乗経にか集衆・放光・雨花・動地あらざらん但大疑を生ずること無し」等云云、此の釈の心はいかなる経経にも序は候へども此れほど大なるはなしとなり・されば天台大師の云く「世人以蜘蛛掛れば喜び来り鳱鵲鳴けば行人至ると小すら尚徴有り大焉ぞ瑞無からん近きを以て