Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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兄弟抄  (3/10) 此の世界は第六天の魔王の所領なり
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されば慈恩大師と申せし人は玄奘三蔵の御弟子太宗皇帝の御師なり、梵漢を空にうかべ一切経を胸にたたへ仏舎利を筆のさきより雨らし牙より光を放ち給いし聖人なり、時の人も日月のごとく恭敬し後の人も眼目とこそ渇仰せしかども伝教大師これをせめ給うには雖讃法華経・還死法華心等云云、言は彼の人の心には法華経をほむとをもへども理のさすところは法華経をころす人になりぬ、善無畏三蔵は月支国うぢやうな国の国王なり、位をすて出家して天竺五十余の国を修行して顕密二道をきわめ、後には漢土にわたりて玄宗皇帝の御師となる、尸那日本の真言師・誰か此人のながれにあらざる、かかる・たうとき人なれども一時に頓死して閻魔のせめにあはせ給う、いかなりける・ゆへとも人しらず。

日蓮此れをかんがへたるに本は法華経の行者なりしが大日経を見て法華経にまされりといゐしゆへなり、されば舎利弗目連等が三五の塵点を経しことは十悪五逆の罪にもあらず謀反・八虐の失にてもあらず、但悪知識に値うて法華経の信心をやぶりて権経にうつりしゆへなり、天台大師釈して云く「若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、本心と申すは法華経を信ずる心なり、失うと申すは法華経の信心を引きかへて余経へうつる心なり、されば文に云く「然与良薬而不肯服」等云云、天台の云く「其の心を失う者は良薬を与うと雖も而かも肯て服せず生死に流浪し他国に逃逝す」云云。

されば法華経を信ずる人の・をそるべきものは賊人・強盗・夜打ち・虎狼・師子等よりも当時の蒙古のせめよりも法華経の行者をなやます人人なり、此の世界は第六天の魔王の所領なり一切衆生は無始已来彼の魔王の眷属なり、六道の中に二十五有と申すろうをかまへて一切衆生を入るるのみならず妻子と申すほだしをうち父母主君と申すあみをそらにはり貪瞋癡の酒をのませて仏性の本心をたぼらかす、但あくのさかなのみを・すすめて三悪道の大地に伏臥せしむ、たまたま善の心あれば障碍をなす、法華経を信ずる人をば・いかにもして悪へ堕さんとをもう


に叶わざればやうやくすかさんがために相似せる華厳経へをとしつ・杜順・智儼・法蔵・澄観等是なり、又般若経へすかしをとす悪友は嘉祥・僧詮等是なり、又深密経へ・すかしをとす悪友は玄奘・慈恩是なり、又大日経へ・すかしをとす悪友は善無畏・金剛智・不空・弘法・慈覚・智証是なり、又禅宗へすかしをとす悪友は達磨・慧可等是なり、又観経へすかしをとす悪友は善導・法然是なり、此は第六天の魔王が智者の身に入つて善人をたぼらかすなり、法華経第五の巻に「悪鬼其の身に入る」と説かれて候は是なり。

設ひ等覚の菩薩なれども元品の無明と申す大悪鬼身に入つて法華経と申す妙覚の功徳を障へ候なり、何に況んや其の已下の人人にをいてをや、又第六天の魔王或は妻子の身に入つて親や夫をたぼらかし或は国王の身に入つて法華経の行者ををどし或は父母の身に入つて孝養の子をせむる事あり、悉達太子は位を捨てんとし給いしかば羅睺羅はらまれて・をはしませしを浄飯王此の子生れて後・出家し給えと・いさめられしかば魔が子ををさへて六年なり、舎利弗は昔禅多羅仏と申せし仏の末世に菩薩の行を立てて六十劫を経たりき、既に四十劫ちかづきしかば百劫にて・あるべかりしを第六天の魔王・菩薩の行の成ぜん事をあぶなしとや思いけん、婆羅門となりて眼を乞いしかば相違なく・とらせたりしかども其より退する心・出来て舎利弗は無量劫が間・無間地獄に堕ちたりしぞかし、大荘厳仏の末の六百八十億の檀那等は苦岸等の四比丘に・たぼらかされて普事比丘を怨みてこそ大地微塵劫が間無間地獄を経しぞかし、師子音王仏の末の男女等は勝意比丘と申せし持戒の僧をたのみて喜根比丘を笑うてこそ無量劫が間・地獄に堕ちつれ。

今又日蓮が弟子檀那等は此にあたれり、法華経には「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」涅槃経に云く「横に死殃に羅り呵嘖・罵辱・鞭杖・閉繋・飢餓・困苦・是くの如き等の現世の軽報を受けて地獄に堕ちず」等云云、般泥洹経に云く「衣服不足にして飲食麤疎なり財を求めるに利あら


ず貧賤の家及び邪見の家に生れ或いは王難及び余の種種の人間の苦報に遭う現世に軽く受くるは斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云、文の心は我等過去に正法を行じける者に・あだをなして・ありけるが今かへりて信受すれば過去に人を障る罪にて未来に大地獄に堕つべきが、今生に正法を行ずる功徳・強盛なれば未来の大苦をまねぎこして少苦に値うなり、この経文に過去の誹謗によりて・やうやうの果報をうくるなかに或は貧家に生れ或は邪見の家に生れ或は王難に値う等云云、この中に邪見の家と申すは誹謗正法の家なり王難等と申すは悪王に生れあうなり、此二つの大難は各各の身に当つてをぼへつべし、過去の謗法の罪を滅せんとて邪見の父母にせめられさせ給う、又法華経の行者をあだむ国主にあへり経文明明たり経文赫赫たり、我身は過去に謗法の者なりける事疑い給うことなかれ、此れを疑つて現世の軽苦忍びがたくて慈父のせめに随いて存外に法華経をすつるよし・あるならば我身地獄に堕つるのみならず悲母も慈父も大阿鼻地獄に堕ちて・ともにかなしまん事疑いなかるべし、大道心と申すはこれなり。

各各・随分に法華経を信ぜられつる・ゆへに過去の重罪をせめいだし給いて候、たとへばくろがねをよくよくきたへばきずのあらわるるがごとし、石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる、此の度こそ・まことの御信用は・あらわれて法華経の十羅刹も守護せさせ給うべきにて候らめ、雪山童子の前に現ぜし羅刹は帝釈なり尸毘王のはとは毘沙門天ぞかし、十羅刹・心み給わんがために父母の身に入らせ給いてせめ給うこともや・あるらん、それに・つけても、心あさからん事は後悔あるべし、又前車のくつがへすは後車のいましめぞかし、今の世には・なにとなくとも道心をこりぬべし、此の世のありさま厭うともよも厭われじ日本の人人定んで大苦に値いぬと見へて候・眼前の事ぞかし、文永九年二月の十一日にさかんなりし華の大風にをるるが・ごとく清絹の大火に・やかるるが・ごとくなりしに・世をいとう人のいかでかなかるらん文永十一年の十月ゆきつしまのものども一時に死人