Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

四恩抄  (1/5) 此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて…
935

四恩抄

                    弘長二年正月十六日 四十一歳御作

                    与 工藤左近尉吉隆  於伊豆伊東

抑此の流罪の身になりて候につけて二つの大事あり、一には大なる悦びあり其の故は此の世界をば娑婆と名く娑婆と申すは忍と申す事なり・故に仏をば能忍と名けたてまつる、此の娑婆世界の内に百億の須弥山・百億の日月・百億の四州あり、其の中の中央の須弥山・日月・四州に仏は世に出でまします、此の日本国は其の仏の世に出でまします国よりは丑寅の角にあたりたる小島なり、此の娑婆世界より外の十方の国土は皆浄土にて候へば人の心もやはらかに賢聖をのり悪む事も候はず、此の国土は十方の浄土にすてはてられて候・十悪・五逆・誹謗賢聖・不孝父母・不敬沙門等の科の衆生が三悪道に堕ちて無量劫を経て還つて此の世界に生れて候が、先生の悪業の習気失せずしてややもすれば十悪・五逆を作り賢聖をのり・父母に孝せず沙門をも敬はず候なり、故に釈迦如来・世に出でましませしかば或は毒薬を食に雑て奉り或は刀杖・悪象・師子・悪牛・悪狗等の方便を以て害し奉らんとし・或は女人を犯すと云い・或は卑賤の者・或は殺生の者と云い、或は行き合い奉る時は面を覆うて眼に見奉らじとし、或は戸を閉じ窓を塞ぎ、或は国王大臣の諸人に向つては邪見の者なり高き人を罵者なんど申せしなり、大集経・涅槃経等に見えたり、させる失も仏には・おはしまさざりしかども只此の国のくせ・かたわとして悪業の衆生が生れ集りて候上、第六天の魔王が此の国の衆生を他の浄土へ出さじと・たばかりを成して・かく事にふれて・ひがめる事をなすなり、此のたばかりも詮する所は仏に法華経を説かせまいらせじ料と見えて候、其の故は魔王の習として三悪道の業を作る者をば悦び三善道の業を作る者をば・なげく、又三善道の業を作る者をば・いたうなげかず三乗とならんとする者をば・いたうなげく、又三乗となる者をば・いたうなげかず仏となる業をなす者をば強になげき事


にふれて障をなす、法華経は一文・一句なれども耳にふるる者は既に仏になるべきと思ひて、いたう第六天の魔王もなげき思う故に方便をまはして留難をなし経を信ずる心をすてしめんと・たばかる、而るに仏の在世の時は濁世なりといへども五濁の始たりし上仏の御力をも恐れ人の貪・瞋・癡・邪見も強盛ならざりし時だにも竹杖外道は神通第一の目連尊者を殺し、阿闍世王は悪象を放て三界の独尊ををどし奉り、提婆達多は証果の阿羅漢・蓮華比丘尼を害し、瞿伽利尊者は智慧第一の舎利弗に悪名を立てき、何に況や世漸く五濁の盛になりて候をや、況や世末代に入りて法華経をかりそめにも信ぜん者の人に・そねみ・ねたまれん事は・おびただしかるべきか、故に法華経に云く「如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」と云云、始に此の文を見候いし時は・さしもやと思い候いしに今こそ仏の御言は違はざりけるものかなと殊に身に当つて思ひ知れて候へ。

日蓮は身に戒行なく心に三毒を離れざれども此の御経を若しや我も信を取り人にも縁を結ばしむるかと思うて随分世間の事おだやか・ならんと思いき、世末になりて候へば妻子を帯して候・比丘も人の帰依をうけ魚鳥を服する僧もさてこそ候か、日蓮はさせる妻子をも帯せず魚鳥をも服せず只法華経を弘めんとする失によりて妻子を帯せずして犯僧の名四海に満ち螻蟻をも殺さざれども悪名一天に弥れり、恐くは在世に釈尊を諸の外道が毀り奉りしに似たり、是れ偏に法華経を信ずることの余人よりも少し経文の如く信をも・むけたる故に悪鬼其の身に入つて・そねみを・なすかとをぼえ候へば是れ程の卑賤・無智・無戒の者の二千余年已前に説かれて候・法華経の文にのせられて留難に値うべしと仏記しをかれ・まいらせて候事のうれしさ申し尽くし難く候、此の身に学文つかまつりし事やうやく二十四五年にまかりなるなり、法華経を殊に信じまいらせ候いし事はわづかに此の六七年よりこのかたなり、又信じて候いしかども懈怠の身たる上或は学文と云ひ或は世間の事にさえられて一日にわづかに一巻・一品・題目計なり、去年の五月十二日より今年正月十六日に至るまで二百四十余日の程は昼夜十二時に法華経


を修行し奉ると存じ候、其の故は法華経の故にかかる身となりて候へば行住坐臥に法華経を読み行ずるにてこそ候へ、人間に生を受けて是れ程の悦びは何事か候べき。

凡夫の習い我とはげみて菩提心を発して後生を願うといへども自ら思ひ出し十二時の間に一時・二時こそは・はげみ候へ、是は思ひ出さぬにも御経をよみ読まざるにも法華経を行ずるにて候か、無量劫の間・六道・四生を輪回し候いけるには或は謀叛をおこし強盗・夜打等の罪にてこそ国主より禁をも蒙り流罪・死罪にも行はれ候らめ、是は法華経を弘むるかと思う心の強盛なりしに依つて悪業の衆生に讒言せられて・かかる身になりて候へば定て後生の勤には・なりなんと覚え候、是れ程の心ならぬ昼夜十二時の法華経の持経者は末代には有がたくこそ候らめ、又止事なくめでたき事侍り無量劫の間六道に回り候けるには多くの国主に生れ値ひ奉りて或は寵愛の大臣・関白等ともなり候けん、若し爾らば国を給り財宝・官禄の恩を蒙けるか・法華経流布の国主に値ひ奉り其の国にて法華経の御名を聞いて修行し是を行じて讒言を蒙り流罪に行われまいらせて候国主には未だ値いまいらせ候はぬか、法華経に云く「是の法華経は無量の国中に於て乃至名字をも聞くことを得べからず何に況んや見ることを得て受持し読誦せんをや」と云云、されば此の讒言の人・国主こそ我が身には恩深き人には・をわしまし候らめ。

仏法を習う身には必ず四恩を報ずべきに候か、四恩とは心地観経に云く一には一切衆生の恩、一切衆生なくば衆生無辺誓願度の願を発し難し、又悪人無くして菩薩に留難をなさずばいかでか功徳をば増長せしめ候べき、二には父母の恩、六道に生を受くるに必ず父母あり、其の中に或は殺盗・悪律儀・謗法の家に生れぬれば我と其の科を犯さざれども其の業を成就す、然るに今生の父母は我を生みて法華経を信ずる身となせり、梵天・帝釈・四大天王転輪聖王の家に生まれて三界・四天をゆづられて人天・四衆に恭敬せられんよりも恩重きは今の某が父母なるか、三には国王の恩、天の三光に身をあたため地の五穀に神を養ふこと皆是れ国王の恩なり、其の上今度・法華経