Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

常忍抄  (2/2) 魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ…
981

以て是くの如し、今日蓮粗之を勘うるに法華経の此の文を重ねて涅槃経に演べて云く「若し三法に於て異の想を修する者は当に知るべし是の輩は清浄の三帰則ち依処無く所有の禁戒皆具足せず終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することを得ず」等云云、此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せるなり寿量品は木に譬え爾前・迹門をば影に譬うる文なり、経文に又之有り、五時・八教・当分・跨節・大小の益は影の如し本門の法門は木の如し云云、又寿量品已前の在世の益は闇中の木の影なり過去に寿量品を聞きし者の事なり等云云、又不信は謗法に非ずと申す事、又云く不信の者地獄に堕ちずとの事、五の巻に云く「疑を生じて信ぜざらん者は則ち当に悪道に堕つべし」云云。

総じて御心へ候へ法華経と爾前と引き向えて勝劣・浅深を判ずるに当分・跨節の事に三つの様有り日蓮が法門は第三の法門なり、世間に粗夢の如く一二をば申せども第三をば申さず候、第三の法門は天台・妙楽・伝教も粗之を示せども未だ事了えず所詮末法の今に譲り与えしなり、五五百歳は是なり、但し此の法門の御論談は余は承らず候・彼は広学多聞の者なりはばかり・はばかり・みた・みたと候いしかば此の方のまけなんども申しつけられなば・いかんがし候べき、但し彼の法師等が彼の釈を知り候はぬは・さてをき候いぬ、六十巻になしなんど申すは天のせめなり謗法の科の法華経の御使に値うて顕れ候なり、又此の沙汰の事を定めて・ゆへありて出来せり・かしまの大田次郎兵衛・大進房・又本院主もいかにとや申すぞ・よくよくきかせ給い候へ、此れ等は経文に子細ある事なり、法華経の行者をば第六天の魔王の必ず障うべきにて候、十境の中の魔境此れなり魔の習いは善を障えて悪を造らしむるをば悦ぶ事に候、強いて悪を造らざる者をば力及ばずして善を造らしむ又二乗の行をなす物をば・あながちに怨をなして善をすすむるなり、又菩薩の行をなす物をば遮つて二乗の行をすすむ是後に純円の行を一向になす者をば兼別等に堕すなり止観の八等を御らむあるべし。


又彼が云く止観の行者は持戒等云云、文句の九には初・二・三の行者の持戒をば此れをせいす経文又分明なり、止観に相違の事は妙楽の問答之有り記の九を見る可し、初随記に二有り利根の行者は持戒を兼ねたり鈍根は持戒之を制止す、又正・像・末の不同もあり摂受・折伏の異あり伝教大師の市の虎の事思い合わすべし。

此れより後は下総にては御法門候べからず了性・思念を・つめつる・上は他人と御論候わば・かへりてあさくなりなん、彼の了性と思念とは年来・日蓮をそしるとうけ給わる、彼等程の蚊虻の者が日蓮程の師子王を聞かず見ずしてうはのそらに・そしる程のをこじんなり、天台法華宗の者ならば我は南無妙法蓮華経と唱えて念仏なんど申す者をば・あれはさる事なんど申すだにも・きくわいなるべきに其の義なき上・偶申す人をそしる・でう・あらふしぎふしぎ、大進房が事さきざき・かきつかわして候やうに・つよづよとかき上申させ給い候へ、大進房には十羅刹のつかせ給いて引きかへしせさせ給うとをぼへ候ぞ、又魔王の使者なんどがつきて候いけるが・はなれて候とをぼへ候ぞ、悪鬼入其身はよも・そら事にては候はじ、事事重く候へども、此の使いそぎ候へばよるかきて候ぞ、恐恐謹言。

  十月一日                      日蓮花押

始聞仏乗義

                    建治四年二月 五十七歳御作

                    与 富木常忍

青鳧七結下州より甲州に送らる其の御志悲母の第三年に相当る御孝養なり、問う止観明静前代未聞の心如何、答う円頓止観なり、問う円頓止観の意何ん、答う法華三昧の異名なり、問う法華三昧の心如何、答う夫れ末代の凡夫法華経を修行する意に二有り一には就類種の開会二には相対種の開会なり、問う此の名は何より出る


や、答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、一には就類種二には相対種なり」其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、其の相対種とは煩悩と業と苦との三道・其の当体を押えて法身と般若と解脱と称する是なり、其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、妙楽云く「別教は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は他師の円なり、又法華経の迹門の中・供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身・煩悩即般若・結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれば般若も解脱も亦究竟なり般若清浄なれば余亦清浄なり解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞くこと亦是の如し皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、此の釈は即ち相対種の手法なり其の意如何、答う生死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰・十二入・十八界なり煩悩とは見思・塵沙・無明の三惑なり結業とは五逆・十悪・四重等なり、法身とは法身如来・般若とは報身如来・解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し今法華経に値つて三道即三徳となるなり。

難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因・悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我等其の根本を尋ね究むれば父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貪・瞋・癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果の二道に依つて業を構う此の業道即ち是れ結縛の法なり、譬えば籠に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を以て三仏因と称するや、譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、答う汝が難大いに道理なり