Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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報恩抄  (20/37) 日蓮は日本国のはしらなり
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劫・阿鼻地獄に堕つ、いかにいわうや日本国の真言師・禅宗・念仏者等は一分の廻心なし如是展転至無数劫疑なきものか、かかる謗法の国なれば天もすてぬ天すつればふるき守護の善神もほこらをやひて寂光の都へかへり給いぬ、但日蓮計り留り居て告げ示せば国主これをあだみ数百人の民に或は罵詈・或は悪口・或は杖木・或は刀剣・或は宅宅ごとにせき・或は家家ごとにをう、それにかなはねば我と手をくだして二度まで流罪あり、去ぬる文永八年九月の十二日に頸を切らんとす、最勝王経に云く「悪人を愛敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来つて国人喪乱に遭う」等云云、大集経に云く「若しは復諸の刹利国王有つて諸の非法を作して世尊の声聞の弟子を悩乱し、若しは以て毀罵し刀杖をもつて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い、若しは他の給施せんに留難を作さば我等彼れをして自然に他方の怨敵を卒起せしめん及び自らの国土も亦兵起り病疫飢饉し非時の風雨・闘諍言訟せしめん、又其の王をして久しからずして復当に已が国を亡失せしめん」等云云、此等の経文のごときは日蓮この国になくば仏は大妄語の人・阿鼻地獄はいかで脱給うべき、去ぬる文永八年九月十二日に平の左衛門並びに数百人に向て云く日蓮は日本国のはしらなり日蓮を失うほどならば日本国のはしらを・たをすになりぬ等云云、此の経文に智人を国主等・若は悪僧等がざんげんにより若は諸人の悪口によつて失にあつるならば、にはかに・いくさをこり又大風吹き他国よりせめらるべし等云云、去ぬる文永九年二月のどしいくさ同じき十一年の四月の大風同じき十月に大蒙古の来りしは偏に日蓮が・ゆへにあらずや、いわうや前よりこれを・かんがへたり誰の人か疑うべき、弘法・慈覚・智証の悞国に年久し其の上禅宗と念仏宗とのわざわいあいをこりて逆風に大波をこり大地震のかさなれるがごとし、さればやふやく国をとろう太政入道が国をおさへ承久に王位つきはてて世東にうつりしかども但国中のみだれにて他国のせめはなかりき、彼は謗法の者はあれども又天台の正法もすこし有り、其の上ささへ顕わす智人なし・かるがゆへに・なのめなりき、譬へば師子のねぶれるは手をつけざれば・ほへず


迅流は櫓をささへざれば波たかからず盗人はとめざれば・いからず火は薪を加えざれば・さかんならず、謗法はあれども・あらわす人なければ王法もしばらくはたえず国も・をだやかなるに・にたり、例せば日本国に仏法わたりはじめて候いしに始は・なに事もなかりしかども守屋・仏をやき僧をいましめ堂塔をやきしかば天より火の雨ふり国にはうさうをこり兵乱つづきしがごとし、此れはそれには・にるべくもなし、謗法の人人も国に充満せり、日蓮が大義も強くせめかかる修羅と帝釈と仏と魔王との合戦にも・をとるべからず、金光明経に云く「時に鄰国の怨敵是くの如き念を興さん当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」等云云、又云く「時に王見已つて即四兵を厳いて彼の国に発向し討罰を為んと欲す我等爾の時に当に眷属無量無辺の薬叉諸神と各形を隠して為に護助を作し彼の怨敵をして自然に降伏せしむべし」等云云、最勝王経の文又かくのごとし、大集経云云仁王経云云、此等の経文のごときんば正法を行ずるものを国主あだみ邪法を行ずる者のかたうどせば大梵天王・帝釈・日月・四天等・隣国の賢王の身に入りかわりて其の国をせむべしとみゆ、例せば訖利多王を雪山下王のせめ大族王を幻日王の失いしがごとし、訖利多王と大族王とは月氏の仏法を失いし王ぞかし、漢土にも仏法をほろぼしし王みな賢王にせめられぬ、これは彼には・にるべくもなし仏法の・かたうど・なるようにて仏法を失なう法師を扶くと見えて正法の行者を失うゆへに愚者はすべてしらず智者なんども常の智人はしりがたし、天も下劣の天人は知らずもやあるらん、されば漢土・月氏のいにしへのみだれよりも大きなるべし。

法滅尽経に云く「吾般泥洹の後五逆濁世に魔道興盛し魔沙門と作つて吾が道を壊乱せん、乃至悪人転多く海中の沙の如く善者甚だ少して若しは一若しは二」云云、涅槃経に云く「是くの如き等の涅槃経典を信ずるものは爪上の土の如く乃至是の経を信ぜざるものは十方界の所有の地土の如し」等云云、此の経文は時に当りて貴とく予が肝に染みぬ、当世日本国には我も法華経を信じたり信じたり、諸人の語のごときんば一人も謗法の者なし、此


の経文には末法に謗法の者・十方の地土・正法の者爪上の土等云云、経文と世間とは水火なり、世間の人云く日本国には日蓮一人計り謗法の者等云云、又経文には大地より多からんと云云、法滅尽経には善者一二人、涅槃経には信者爪上土等云云、経文のごとくならば日本国は但日蓮一人こそ爪上土一二人にては候へ、されば心あらん人人は経文をか用ゆべき世間をか用ゆべき。

問て云く涅槃経の文には涅槃経の行者は爪上の土等云云、汝が義には法華経等云云如何、答えて云く涅槃経に云く「法華の中の如し」等云云、妙楽大師云く「大経自ら法華を指して極と為す」等云云、大経と申すは涅槃経なり涅槃経には法華経を極と指て候なり、而るを涅槃宗の人の涅槃経を法華経に勝ると申せしは主を所従といゐ下郎を上郎といゐし人なり、涅槃経をよむと申すは法華経をよむを申すなり、譬へば賢人は国主を重んずる者をば我を・さぐれども悦ぶなり、涅槃経は法華経を下て我をほむる人をば・あながちに敵と・にくませ給う、此の例をもつて知るべし華厳経・観経・大日経等をよむ人も法華経を劣とよむは彼れ彼れの経経の心にはそむくべし、此れをもつて知るべし法華経をよむ人の此の経をば信ずるよう・なれども諸経にても得道なるとおもうは此の経をよまぬ人なり、例せば嘉祥大師は法華玄と申す文・十巻造りて法華経をほめしかども・妙楽かれをせめて云く「毀其の中に在り何んぞ弘讃と成さん」等云云、法華経をやぶる人なりされば嘉祥は落ちて天台につかひて法華経をよまず我れ経をよむならば悪道まぬかれがたしとて七年まで身を橋とし給いき、慈恩大師は玄賛と申して法華経をほむる文・十巻あり伝教大師せめて云く「法華経を讃むると雖も還て法華の心を死す」等云云、此等をもつておもうに法華経をよみ讃歎する人人の中に無間地獄は多く有るなり、嘉祥・慈恩すでに一乗誹謗の人ぞかし、弘法・慈覚・智証あに法華経蔑如の人にあらずや、嘉祥大師のごとく講を廃し衆を散じて身を橋となせしも猶已前の法華経・誹謗の罪や・きへざるらん、例せば不軽軽毀の衆は不軽菩薩に信伏随従せしかども重罪いまだ・のこり