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日蓮大聖人・池田大作

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御講聞書  (2/41) 題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う…
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響の如し、題目の五字は体の如く音の如くなり、題目を唱え奉る音は十方世界にとずかずと云う所なし、我等が小音なれども、題目の大音に入れて唱え奉る間、一大三千界にいたらざる所なし、譬えば小音なれども貝に入れて吹く時・遠く響くが如く、手の音はわずかなれども鼓を打つに遠く響くが如し、一念三千の大事の法門是なり、かかる目出度き御経にて渡らせ給えるを、謗る人何ぞ無間に堕在せざらんや、法然弘法等の大悪知識是なり。

一妙法

の二字は一切衆生の色心の二法なり、一代説教の中に法の字の上に妙の字を置きたる経は一経もなし、涅槃経の題目にも大涅槃経と云いて大の字あれども妙の字なし、但し大は只是れ妙と云えり然れども大と妙とは不同なり、同じ大なれども華厳経の大方広仏華厳経と云える題号の大と、涅槃経の大と天地雲泥なり、華厳経の大は無得道の大なり。涅槃経の大は法華同醍醐味の大なり、然れども然涅槃尚劣と云う時は法華経には劣れり、此の事は涅槃経に分明に法華経に劣ると説かれたり、涅槃経に云く如法華中八千声聞得受記莂成大果実如秋収冬蔵更無所作云云、此の文分明に我と法華経に劣れりと説かせ給えり。

一蓮華

とは本因本果なり、此の本因本果と云うは一念三千なり、本有の因・本有の果なり、今始めたる因果に非ざるなり、五百塵点の法門とは此の事を説かれたり、本因の因というは下種の題目なり、本果の果とは成仏なり、因と云うは信心領納の事なり、此の経を持ち奉る時を本因とす其の本因のまま成仏なりと云うを本果とは云うなり、日蓮が弟子檀那の肝要は本果より本因を宗とするなり、本因なくしては本果有る可からず、仍て本因とは慧の因にして名字即の位なり、本果は果にして究竟即の位なり、究竟即とは九識本覚の異名なり、九識本法の都とは法華の行者の住所なり、神力品に云く若しは山谷曠野等と説けり即ち是れ道場と見えたり豈法華の行者の住所は生処・得道・転法輪・入涅槃の諸仏の四処の道場に非ずや。


一本因本果の事

法界悉く常住不滅の為体を云うなり、されば妙楽大師・此の事を釈する時・弘決に云く当知身土一念三千・故成道時称此本理一身一念遍於法界云云、此の釈分明に本因本果を釈したり、身と云うは一切衆生なり、土と云うは此の一切衆生の住処なり一念とは此の衆生の念念の作業なり、故成道時称此本理とは本因本果の成道なり、本理と本因本果とは同じ事なり法界とは五大なり、所詮法華経を持ち奉る行者は若在仏前蓮華化生なれば称此本理の成道なり、本理に称うとは妙法蓮華経の本理に称うと云う事なり、法華経の本理に叶うとは此の経を持ち奉るを云うなり、若有能持則持仏身とは是なり。

一爾前無得道の事

此の法門は蓮華の二字より起れり、其の故は蓮華の二字を以て云うなり、三世の諸仏の成道を唱うるは蓮華の二字より出でたり、権教に於て蓮華の沙汰無し若しありと云うとも有名無実の蓮華なるべし、三世の諸仏の本時の下種を指して華と名け、此の下種の華によつて成仏の蓮を取る、妙法蓮華即ち下種なり、下種即ち南無妙法蓮華経なり、華は本因・蓮は本果なれば華の本因を不信謗法の人豈具足せんや、経に云く若人不信毀謗此経則断一切世間仏種云云、此の蓮華に迷う故に十界具足無し、十界具足せざれば一念三千跡形無きなり、一切の法門は蓮華の二字より起れり、一代説教に於て無得道と云うも蓮華の二字より起れり深く之を案ず可し。

一序品の事

此の事は、教主釈尊・法華経を説き給わんとて先ず瑞相の顕れたる事を云うなり、今末法に入つて南無妙法蓮華経の顕われ給うべき瑞相は彼には百千万倍勝るべきなり、其の故は雨は竜の大小により蓮華は池の浅深に随つて其の色不同なるが如くなるべし。

一品と云う事

品とは、釈に云く義類同と云えり、此の法華経は三仏寄合い給いて定判し給えり、三仏とは釈迦・多宝・分身是なり、此の三仏・評定してのたまわく一切衆生皆成仏道は法華経に限りて有りと、皆是真実の


証明・舌相梵天の誠証・要当説真実の金言・此等を義類同して題したる品の字なり、天竺には跋渠と云う此には品と云えり、釈迦・多宝・分身の三仏の御口を以て指し合せ同音に定判し給える我等衆生の成仏なり、譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時・母又同じくつつきあくるに・同じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応する故なり、今法華経の成仏も此くの如くなり、三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり、故に経に云く従仏口生如従仏口等云云。

一如是我聞の事

仰に云く如と云うは衆生の如と仏の如と一如にして無二如なり、然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり、如は如を不異に名く即ち空の義なりと釈して少しも・ことならざるを云うなり、所詮法華経の意は煩悩即菩提・生死即涅槃・生仏不二・迷悟一体といえり、是を如とは云うなり、されば如は実相・是は諸法なり、又如は心法・是は色法・如は寂・是は照なり、如は一念・是は三千なり、今経の心は文文・句句・一念三千の法門なり、惣じて如是我聞の四字より外は今経の体全く無きなり如と妙とは同じ事・是とは法と又同じ事なり、法華経と釈尊と我等との三・全く不同無く・如我等無異なるを如と云うなり、仏は悟り・凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり、我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主と釈せり、聞とは名字即なり、如是の二字は妙法なり、阿難を始めて霊山一会の聴衆・同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり仍つて我も聞くと云えり、されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり、所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり、我は真如法性の我なり、天台大師は同聞衆と判ぜり同じ事を聞く衆と云うなり、同とは妙法蓮華経なり、聞は即身成仏・法華経に限ると聞くなり云云。

一如是の二字

を約教の下に釈する時・文句の一に又一時に四箭を接して地に堕せしめざるも未だ敢て捷しと称せず、鈍驢に策つて跋鼈を駈る尚し一をも得ず何に況や四をや云云、記の一に云く、大経に云く迦葉菩薩問