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日蓮大聖人・池田大作

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立正観抄  (3/7) 教弥弥実なれば位弥弥下し
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い天台の釈なりとも釈尊の金言に背き法華経に背かば全く之を用ゆ可からざるなり、依法不依人の故に竜樹・天台・伝教元よりの御約束なるが故なり、其上天台の釈の意は迹の大教起れば爾前の大教亡じ本の大教興れば迹の大教亡じ観心の大教興れば本の大教亡ずと釈するは本体の本法をば妙法不思議の一法に取り定めての上に修行を立つるの時、今像法の修行は観心修行を詮と為るに迹を尋ぬれば迹広し本を尋ぬれば本高うして極む可からず、故に末学機に叶い難し但己心の妙法を観ぜよと云う釈なり、然りと雖も妙法を捨てよとは釈せざるなり若し妙法を捨てば何物を己心と為して観ず可きや、如意宝珠を捨て瓦石を取つて宝と為す可きか、悲しいかな当世天台宗の学者は念仏・真言・禅宗・等に同意するが故に天台の教釈を習い失つて法華経に背き大謗法の罪を得るなり、若し止観を法華経に勝ると云わば種種の過之有り止観は天台の道場所得の己証なり、法華経は釈尊の道場所得の大法なり是一釈尊は妙覚果満の仏なり天台は住前未証なれば名字・観行・相似には過ぐ可からず四十二重の劣なり是二法華は釈尊乃至諸仏出世の本懐なり止観は天台出世の己証なり是三法華経は多宝の証明あり来集の分身は広長舌を大梵天に付く皆是真実の大白法なり是四止観は天台の説法なり是くの如き等の種種の相違之有れども仍お之を略するなり、又一つの問答に云く所被の機・上機なる故に勝ると云わば実を捨てて権を取れ天台云く「教弥弥権なれば位弥弥高し」と釈し給う故なり所被の機下劣なる故に劣ると云わば権を捨てて実を取れ、天台の釈には教弥弥実なれば位弥弥下しと云う故なり、然而して止観は上機の為に之を説き法華は下機の為に之を説くと云わば止観は法華に劣れる故に機を高く説くと聞えたり実にさもや有るらん、天台大師は霊山の聴衆として如来出世の本懐を宣べたもうと雖も時至らざるが故に妙法の名字を替えて止観と号す迹化の衆なるが故に本化の付属を弘め給わず正直の妙法を止観と説きまぎらかす故に有のままの妙法ならざれば帯権の法に似たり、故に知んぬ天台弘通の所化の機は在世帯権の円機の如し、本化弘通の所化の機は法華本門の直機なり、止観・法華は全く体同


と云わん尚人師の釈を以て仏説に同ずる失甚重なり、何に況や止観は法華経に勝ると云う邪義を申し出すは但是れ本化の弘経と迹化の弘通と・像法と末法と迹門の付属と本門の付属とを末法の行者に云い顕わさせん為の仏天の御計いなり、爰に知んぬ当世天台宗の中に此の義を云う人は祖師天台の為には不知恩の人なり豈其の過を免れんや、夫れ天台大師は昔霊山に在ては薬王と名け・今漢土に在ては天台と名け・日本国の中にては伝教と名く三世の弘通倶に妙法と名く、是くの如く法華経を弘通し給う人は在世の釈尊より外は三国に其の名を聞かず有り難く御坐します大師を其の末学其の教釈を悪く習うて失無き天台に失を懸けたてまつる豈大罪に非ずや。

今問う天台の本意は何法ぞや碩学等の云く「一心三観是なり」今云く一実円満の一心三観とは誠に甚深なるに似たれども尚以て行者修行の方法なり三観とは因の義なるが故なり慈覚大師の釈に云く「三観とは法体を得せしめんが為の修観なり」云云、伝教大師云く「今止観修行とは法華の妙果を成ぜんが為なり」云云、故に知んぬ一心三観とは果地・果徳の法門を成ぜんが為の能観の心なることを何に況や三観とは言説に出でたる法なる故に如来の果地・果徳の妙法に対すれば可思議の三観なり。

問う一心三観に勝れたる法とは何なる法ぞや、答う此の事誠に一大事の法門なり唯仏与仏の境界なるが故に我等が言説に出す可からざるが故に是を申す可らざるなり、是を以て経文には「我が法は妙にして思い難し言を以て宣ぶ可からず」云云妙覚果満の仏すら尚不可説・不思議の法と説き給う何に況や等覚の菩薩已下乃至凡夫をや、問う名字を聞かずんば何を以て勝法有りと知ることを得んや、答う天台己証の法とは是なり、当世の学者は血脈相承を習い失う故に之を知らざるなり故に相構え相構えて秘す可く秘す可き法門なり、然りと雖も汝が志神妙なれば其の名を出すなり一言の法是なり伝教大師の一心三観一言に伝うと書き給う是なり、問う未だ其の法体を聞かず如何、答う所詮一言とは妙法是なり、問う何を以て妙法は一心三観に勝れたりと云う事を知ることを得る


や、答う妙法は所詮の功徳なり三観は行者の観門なる故なり此の妙法を仏説いて言く「道場所得法・我法妙難思・是法非思量・不可以言宣」云云、天台の云く「妙は不可思議・言語道断・心行所滅なり法は十界十如・因果不二の法なり」と、三諦と云うも三観と云うも三千と云うも共に不思議法とは云えども天台の己証天台の御思慮の及ぶ所の法門なり、此の妙法は諸仏の師なり今の経文の如くならば久遠実成の妙覚極果の仏の境界にして爾前迹門の教主・諸仏菩薩の境界に非ず経に唯仏与仏・乃能究尽とは迹門の界如三千の法門をば迹門の仏が当分究竟の辺を説けるなり、本地難思の境智の妙法は迹仏等の思慮に及ばず何に況や菩薩凡夫をや、止観の二字をば観名仏知・止名仏見と釈すれども迹門の仏智仏見にして妙覚極果の知見には非ざるなり、其の故は止観は天台己証の界如三千・三諦三観を正と為す迹門の正意是なり、故に知んぬ迹仏の知見なりと云う事を但止観に絶待不思議の妙観を明かすと云えども只一念三千の妙観に且らく与えて絶待不思議と名けるなり。

問う天台大師真実に此の一言の妙法を証得したまわざるや、答う内証爾らざるなり、外用に於ては之を弘通したまわざるなり、所謂内証の辺をば祕して外用には三観と号して一念三千の法門を示現し給うなり、問う何が故ぞ知り乍ら弘通し給わざるや、答う時至らざるが故に付属に非ざるが故に迹化なるが故なり、問う天台此の一言の妙法を証得し給える証拠之有りや、答う此の事天台一家の祕事なり世に流布せる学者之を知らず灌頂玄旨の血脈とて天台大師自筆の血脈一紙之有り、天台御入滅の後は石塔の中に之有り伝教大師御入唐の時八舌の鑰を以て之を開き道邃和尚より伝受し給う血脈とは是なり、此の書に云く「一言の妙旨・一教の玄義」文、伝教大師の血脈に云く「夫れ一言の妙法とは両眼を開いて五塵の境を見る時は随縁真如なるべし両眼を閉じて無念に住する時は不変真如なるべし、故に此の一言を聞くに万法茲に達し一代の修多羅一言に含す」文、此の両大師の血脈の如くならば天台大師の血脈相承の最要の法は妙法の一言なり、一心三観とは所詮妙法を成就せん為の修行の方法