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日蓮大聖人・池田大作

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新池殿御消息  (1/4) 小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれ…
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王如来の記を送り給いき彼は仏と提婆と同性一家なる故なり、此れは又慈父なり子息なり、浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とならざるべき、事多しと申せども止め畢んぬ三反人に・よませて・きこしめせ、恐恐謹言。

  六月二十七日                    日蓮花押

  返す返すするがの人人みな同じ御心と申させ給い候へ。

新池殿御消息

                    弘安二年五月 五十八歳御作

八木三石送り給い候、今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり。

抑因果のことはりは華と果との如し、千里の野の枯れたる草に螢火の如くなる火を一つ付けぬれば須臾に一草・二草・十・百・千万草につきわたりてもゆれば十町・二十町の草木・一時にやけつきぬ、竜は一渧の水を手に入れて天に昇りぬれば三千世界に雨をふらし候、小善なれども法華経に供養しまいらせ給いぬれば功徳此くの如し、仏滅後・一百年と申せしに月氏国に阿育大王と申せし王ましましき・一閻浮提・八万四千の国を四分が一御知行ありき、竜王をしたがへ鬼神を召し仕はせ給う、六万の羅漢を師として八万四千の石塔を立て十万億の金を仏に供養し奉らんと誓はせ給いき、かかる大王にてをはせし其の因位の功徳をたづぬれば・ただ土の餅一・釈迦仏に供養し奉りし故ぞかし、釈迦仏の伯父に斛飯王と申す王をはします、彼の王に太子あり阿那律となづく此の太子生れ給いしに御器一つ持ち出でたり、彼の御器に飯あり食すれば又出でき又出でき終に飯つくる事なし、故にかの太


子のをさな名をば如意となづけたり、法華経にて仏に成り給ふ普明如来是なり、此の太子の因位を尋ぬればうへたる世にひえの飯を辟支仏と申す僧に供養せし故ぞかし、辟支仏を供養する功徳すら此くの如し、況や法華経の行者を供養せん功徳は無量無辺の仏を供養し進らする功徳にも勝れて候なり。

抑日蓮は日本国の者なり、此の国は南閻浮提七千由旬の内に八万四千の国あり・十六の大国・五百の中国・十千の小国・無量の粟散国あり、其の中に月氏国と申す国は大国なり、彼の国に五天竺あり、其れより東海の中に小島あり日本国是なり、中天竺よりは十万余里の東なり、仏教は仏滅度後正法一千年が間は天竺にとどまりて余国にわたらず、正法一千年の末・像法に入つて一十五年と申せしに漢土へ渡る、漢土に三百年すぎて百済国に渡る、百済国に一百年已上一千四百十五年と申せしに・人王三十代・欽明天皇の御代に日本国に始めて釈迦仏の金銅の像と一切経は渡りて候いき、今七百余年に及び候、其の間一切経は五千余巻或は七千余巻なり、宗は八宗・九宗・十宗なり、国は六十六箇国・二つの島・神は三千余社・仏は一万余寺なり、男女よりも僧尼は半分に及べり、仏法の繁昌は漢土にも勝れ天竺にもまされり。

但し仏法に入つて諍論あり、浄土宗の人人は阿弥陀仏を本尊とし・真言の人人は大日如来を本尊とす・禅宗の人人は経と仏とをば閣いて達磨を本尊とす、余宗の人人は念仏者・真言等に随へられ何れともなけれども・つよきに随ひ多分に押されて阿弥陀仏を本尊とせり、現在の主師親たる釈迦仏を閣きて他人たる阿弥陀仏の十万億の他国へにげ行くべきよしを・ねがはせ給い候、阿弥陀仏は親ならず主ならず師ならず、されば一経の内・虚言の四十八願を立て給いたりしを・愚なる人人実と思いて物狂はしく金拍子をたたきおどりはねて念仏を申し親の国をばいとひ出でぬ、来迎せんと約束せし阿弥陀仏の約束の人は来らず・中有のたびの空に迷いて謗法の業にひかれて三悪道と申す獄屋へおもむけば・獄卒・阿防・羅刹悦びをなし・とらへからめてさひなむ事限りなし、これをあらあ


ら経文に任せてかたり申せば・日本国の男女・四十九億九万四千八百二十八人ましますが・某一人を不思議なる者に思いて余の四十九億九万四千八百二十七人は皆敵と成りて、主師親の釈尊をもちひぬだに不思議なるに、かへりて或はのり或はうち或は処を追ひ或は讒言して流罪し死罪に行はるれば、貧なる者は富めるをへつらひ賤き者は貴きを仰ぎ無勢は多勢にしたがう事なれば、適法華経を信ずる様なる人人も世間をはばかり人を恐れて多分は地獄へ堕つる事不便なり、但し日蓮が愚眼にてや・あるらん又宿習にてや候らん法華経最第一・已今当説難信難解・唯我一人能為救護と説かれて候文は如来の金言なり敢て私の言にはあらず、当世の人は人師の言を如来の金言と打ち思ひ・或は法華経に肩を並べて斉しと思ひ・或は勝れたり或は劣るなれども機にかなへりと思へり、しかるに如来の聖教に随他意随自意と申す事あり、譬えば子の心に親の随うをば随他意と申す・親の心に子の随うをば随自意と申す、諸経は随他意なり仏一切衆生の心に随ひ給ふ故に、法華経は随自意なり一切衆生を仏の心に随へたり、諸経は仏説なれども是を信ずれば衆生の心にて永く仏にならず、法華経は仏説なり仏智なり一字一点も是を深く信ずれば我が身即仏となる、譬えば白紙を墨に染むれば黒くなり黒漆に白き物を入るれば白くなるが如し毒薬変じて薬となり衆生変じて仏となる故に妙法と申す、然るに今の人人は高きも賤きも現在の父たる釈迦仏をばかろしめて他人の縁なき阿弥陀・大日等を重んじ奉るは是れ不孝の失にあらずや・是れ謗法の人にあらずや、と申せば日本国の人・一同に怨ませ給うなり、其れもことはりなり・まがれる木はすなをなる繩をにくみいつはれる者はただしき政りごとをば心にあはず思うなり。

我が朝人王・九十一代の間に謀叛の人人は二十六人なり、所謂大山の王子・大石の小丸・乃至将門すみとも悪左府等なり、此等の人人は吉野とつ河の山林にこもり筑紫・鎮西の海中に隠るれば・島島のえびす浦浦のもののふどもうたんとす、然れどもそれは貴き聖人・山山・寺寺・社社の法師・尼・女人はいたう敵と思う事なし、日蓮をば上