Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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法門申さるべき様の事  (8/8) 聖人は言をかざらずと申す
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を起し或は我が生身の本尊たる大講堂の教主釈尊をやきはらい或は生身の弥勒菩薩をほろぼす、進んでは教主釈尊の怨敵となり・退いては当来弥勒の出世を過たんとくるい候か、この大罪は経論にいまだとかれず、又此の大罪は叡山三千人の失にあらず公家武家の失となるべし。

日本一州・上下万人・一人もなく謗法なれば大梵天王・帝桓並びに天照大神等・隣国の聖人に仰せつけられて謗法をためさんとせらるるか、例せば国民たりし清盛入道・王法をかたぶけたてまつり結句は山王・大仏殿をやきはらいしかば天照大神・正八幡・山王等よりきせさせ給いて・源の頼義が末の頼朝に仰せ下して平家をほろぼされて国土安穏なりき、今一国挙りて仏神の敵となれり、我が国に此の国を領すべき人なきかのゆへに大蒙古国は起るとみへたり、例せば震旦・高麗等は天竺についでは仏国なるべし、彼の国国・禅宗・念仏宗になりて蒙古にほろぼされぬ、日本国は彼の二国の弟子なり二国のほろぼされんにあに此の国安穏なるべしや、国をたすけ家ををもはん人人はいそぎ禅・念がともがらを経文のごとくいましめらるべきか、経文のごとくならば仏神・日本国にましまさず、かれを請しまいらせんと術はおぼろげならでは叶いがたし、先ず世間の上下万人云く八幡大菩薩は正直の頂にやどり給い別のすみかなし等云云、世間に正直の人なければ大菩薩のすみかましまさず、又仏法の中に法華経計りこそ正直の御経にては・おはしませ、法華経の行者なければ大菩薩の御すみか・おはせざるか。

但し日本国には日蓮一人計りこそ世間・出世・正直の者にては候へ、其の故は故最明寺入道に向つて禅宗は天魔のそいなるべしのちに勘文もつてこれをつげしらしむ、日本国の皆人・無間地獄に堕つべし、これほど有る事を正直に申すものは先代にもありがたくこそ、これをもつて推察あるべし・それより外の小事曲ぐべしや、又聖人は言をかざらずと申す、又いまだ顕れざる後をしるを聖人と申すか、日蓮は聖人の一分にあたれり、此の法門のゆへに二十余所をわれ結句流罪に及び身に多くのきずをかをほり弟子をあまた殺させたり、比干にもこえ伍しそ


にもをとらず、提婆菩薩の外道に殺され師子尊者の檀弥利王に頸をはねられしにもをとるべきか、もししからば八幡大菩薩は日蓮が頂を・はなれさせ給いてはいづれの人の頂にかすみ給はん、日蓮を此の国に用いずば・いかんがすべきと・なげかれ候なりと申せ、又日蓮房の申し候・仏菩薩並びに諸大善神をかへしまいらせん事は別の術なし、禅宗・念仏宗の寺寺を一つもなく失い其の僧らを・いましめ叡山の講堂を造り霊山の釈迦牟尼仏の御魂を請し入れたてまつらざらん外は諸神もかへり給うべからず、諸仏も此の国を扶け給はん事はかたしと申せ。

十章抄

                    文永八年五月 五十歳御作

                    与 三位公日行

華厳宗と申す宗は華厳経の円と法華経の円とは一なり而れども法華経の円は華厳の円の枝末と云云、法相・三論も又又かくのごとし、天台宗・彼の義に同ぜば別宗と立てなにかせん、例せば法華・涅槃は一つ円なり先後に依つて涅槃尚をとるとさだむ、爾前の円・法華の円を一とならば先後によりて法華豈劣らざらんや、詮ずるところ・この邪義のをこり此妙彼妙・円実不異・円頓義斉・前三為麤等の釈にばかされて起る義なり、止観と申すも円頓止観の証文には華厳経の文をひきて候ぞ、又二の巻の四修三昧は多分は念仏と見へて候なり、源濁れば流清からずと申して爾前の円と法華経の円と一つと申す者が止観を人によませ候えば但念仏者のごとくにて候なり、但止観は迹門より出たり・本門より出たり・本迹に亘ると申す三つの義いにしえより・これあり、これは且くこれををく、故に知る一部の文共に円乗開権の妙観を成すと申して止観一部は法華経の開会の上に建立せる文なり、爾前の経経をひき乃至外典を用いて候も爾前・外典の心にはあらず、文をばかれども義をばけづりすてたるなり、「境は昔に寄ると雖も智は必ず円に依る」と申して文殊問・方等・請観音等の諸経を引いて四種を立つれども心は必ず


法華経なり「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。

止観に十章あり大意・釈名・体相・摂法・偏円・方便・正観・果報・起教・旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観・十境・十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何に況や爾前に分たへたる事なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る・爾前は迹門の依義判文・迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし、されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。

但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり・日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、法華経に十七種の名ありこれ通名なり・別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり、阿弥陀・釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき・口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり、此等をしらざる天台・真言等の念仏者・口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ在家の者は一向に念うやう天台・真言等は念仏にてありけり、又善導・法然が一門はすなわち天台真言の人人も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり、わづらわしく・かれを学せんよりは法華経をよまんよりは一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す、此の義・日本国に充満せし故に天台・真言の学者・在家の人人にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。

九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛なりしより・これはじまれり、あわれなるかなや、外道は常楽我浄と立てしかば仏世にいでまさせ給いては苦・空・無常・