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日蓮大聖人・池田大作

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善無畏三蔵抄  (5/10) 此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処
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り、此の仏は賢劫第九・人寿百歳の時・中天竺・浄飯大王の御子・十九にして出家し三十にして成道し五十余年が間一代聖教を説き八十にして御入滅・舎利を留めて一切衆生を正像末に救ひ給ふ、阿弥陀如来・薬師仏・大日等は他土の仏にして此の世界の世尊にてはましまさず、此の娑婆世界は十方世界の中の最下の処・譬えば此の国土の中の獄門の如し、十方世界の中の十悪・五逆・誹謗正法の重罪・逆罪の者を諸仏如来・擯出し給いしを釈迦如来・此の土にあつめ給ふ、三悪並びに無間大城に堕ちて其の苦をつぐのひて人中天上には生れたれども其の罪の余残ありてややもすれば正法を謗じ智者を罵り罪つくりやすし、例せば身子は阿羅漢なれども瞋恚のけしきあり、畢陵は見思を断ぜしかども慢心の形みゆ、難陀は婬欲を断じても女人に交る心あり、煩悩を断じたれども余残あり何に況や凡夫にをいてをや、されば釈迦如来の御名をば能忍と名けて此の土に入り給うに一切衆生の誹謗をとがめずよく忍び給ふ故なり、此等の秘術は他仏のかけ給へるところなり、阿弥陀仏等の諸仏世尊・悲願をおこさせ給いて心にははぢをおぼしめして還つて此の界にかよひ四十八願・十二大願なんどは起させ給ふなるべし、観世音等の他土の菩薩も亦復是くの如し、仏には常平等の時は一切諸仏は差別なけれども常差別の時は各各に十方世界に土をしめて有縁無縁を分ち給ふ、大通智勝仏の十六王子・十方に土をしめて一一に我が弟子を救ひ給ふ、其の中に釈迦如来は此土に当り給ふ我等衆生も又生を娑婆世界に受けぬ、いかにも釈迦如来の教化をばはなるべからず而りといへども人皆是を知らず委く尋ねあきらめば唯我一人能為救護と申して釈迦如来の御手を離るべからず、而れば此の土の一切衆生・生死を厭ひ御本尊を崇めんとおぼしめさば必ず先ず釈尊を木画の像に顕わして御本尊と定めさせ給いて其の後力おはしまさば弥陀等の他仏にも及ぶべし。

然るを当世聖行なき此の土の人人の仏をつくりかかせ給うに先ず他仏をさきとするは其の仏の御本意にも釈迦如来の御本意にも叶ふべからざる上世間の礼儀にもはづれて候、されば優塡大王の赤栴檀いまだ他仏をば・きざ


ませ給はず、千塔王の画像も釈迦如来なり、而るを諸大乗経による人人・我が所依の経経を諸経に勝れたりと思ふ故に教主釈尊をば次さまにし給ふ、一切の真言師は大日経は諸経に勝れたりと思ふ故に此の経に詮とする大日如来を我等が有縁の仏と思ひ念仏者等は観経等を信ずる故に阿弥陀仏を娑婆有縁の仏と思ふ、当世はことに善導・法然等が邪義を正義と思いて浄土の三部経を指南とする故に十造る寺は八九は阿弥陀仏を本尊とす、在家・出家・一家・十家・百家・千家にいたるまで持仏堂の仏は阿弥陀なり、其の外木画の像・一家に千仏万仏まします大旨は阿弥陀仏なり、而るに当世の智者とおぼしき人人・是を見て・わざはひとは思はずして我が意に相叶ふ故に只称美讃歎の心のみあり、只一向悪人にして因果の道理をも弁へず一仏をも持たざる者は還つて失なきへんもありぬべし、我等が父母・世尊は主師親の三徳を備えて一切の仏に擯出せられたる我等を唯我一人・能為救護とはげませ給ふ、其の恩大海よりも深し其の恩大地よりも厚し其の恩虚空よりも広し、二つの眼をぬいて仏前に空の星の数備ふとも身の皮を剥いで百千万・天井にはるとも涙を閼伽の水として千万億劫・仏前に花を備ふとも身の肉血を無量劫・仏前に山の如く積み大海の如く湛ふとも此の仏の一分の御恩を報じ尽しがたし。

而るを当世の僻見の学者等・設ひ八万法蔵を極め十二部経を諳んじ大小の戒品を堅く持ち給ふ智者なりとも此の道理に背かば悪道を免るべからずと思食すべし、例せば善無畏三蔵は真言宗の元祖・烏萇奈国の大王・仏種王の太子なり、教主釈尊は十九にして出家し給いき此の三蔵は十三にして位を捨て月氏・七十箇国・九万里を歩き回りて諸経・諸論・諸宗を習い伝へ北天竺・金粟王の塔の下にして天に仰ぎ祈請を致し給えるに虚空の中に大日如来を中央として胎蔵界の曼荼羅・顕れさせ給ふ、慈悲の余り此の正法を辺土に弘めんと思食して漢土に入り給ひ玄宗皇帝に秘法を授け奉り旱魃の時雨の祈をし給いしかば三日が内に天より雨ふりしなり、此の三蔵は千二百余尊の種子・尊形三摩耶・一事も・くもりなし、当世の東寺等の一切の真言宗・一人も此の御弟子に非るはなし、而るに


此の三蔵一時に頓死ありき数多の獄卒来つて鉄繩七すぢ懸けたてまつり閻魔王宮に至る此の事第一の不審なり、いかなる罪あつて此の責に値い給ひけるやらん、今生は十悪は有りもやすらん五逆罪は造らず過去を尋ぬれば大国の王となり給ふ事を勘うるに十善戒を堅く持ち五百の仏陀に仕へ給ふなり何の罪かあらん、其の上十三にして位を捨て出家し給いき閻浮第一の菩提心なるべし、過去・現在の軽重の罪も滅すらん・其の上月氏に流布する所の経論諸宗を習い極め給いしなり何の罪か消えざらん、又真言密教は他に異なる法なるべし一印一真言なれども手に結び口に誦すれば三世の重罪も滅せずと云うことなし、無量倶低劫の間作る所の衆の罪障も此の曼荼羅を見れば一時に皆消滅すとこそ申し候へ、況や此の三蔵は千二百余尊の印真言を諳に浮べ即身成仏の観道鏡に懸り両部灌頂の御時・大日覚王となり給いき、如何にして閻魔の責に豫り給いけるやらん、日蓮は顕密二道の中に勝れさせ給いて我等易易と生死を離るべき教に入らんと思い候いて真言の秘教をあらあら習ひ此の事を尋ね勘うるに一人として答をする人なし、此の人悪道を免れずば当世の一切の真言並びに一印一真言の道俗・三悪道の罪を免るべきや。

日蓮此の事を委く勘うるに二つの失有つて閻魔王の責に予り給へり、一つには大日経は法華経に劣るのみに非ず涅槃経・華厳経・般若経等にも及ばざる経にて候を法華経に勝れたりとする謗法の失なり、二つには大日如来は釈尊の分身なり而るを大日如来は教主釈尊に勝れたりと思ひし僻見なり、此の謗法の罪は無量劫の間・千二百余尊の法を行ずとも悪道を免るべからず、此の三蔵此の失免れ難き故に諸尊の印真言を作せども叶はざりしかば法華経第二・譬喩品の今此三界・皆是我有・其中衆生・悉是吾子・而今此処・多諸患難・唯我一人・能為救護の文を唱へて鉄の繩を免れさせ給いき、而るに善無畏已後の真言師等は大日経は一切経に勝るるのみに非ず法華経に超過せり、或は法華経は華厳経にも劣るなんど申す人もあり此等は人は異なれども其の謗法の罪は同じきか、又善無畏