Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

千日尼御前御返事  (6/6) 其の上・人は見る眼の前には心ざし有りとも・…
1314

れは後世ををぼせずば・なにしにか・かくは・おはすべき、又其の故に或は所ををい或はくわれうをひき或は宅を・とられなんどせしに・ついに・とをらせ給いぬ、法華経には過去に十万億の仏を供養せる人こそ今生には退せぬとわ・みへて候へ、されば十万億供養の女人なり、其の上・人は見る眼の前には心ざし有りとも・さしはなれぬれば・心はわすれずとも・さでこそ候に去ぬる文永十一年より今年弘安元年まではすでに五箇年が間・此の山中に候に佐渡の国より三度まで夫をつかはす、いくらほどの御心ざしぞ大地よりもあつく大海よりもふかき御心ざしぞかし、釈迦如来は我が薩埵王子たりし時うへたる虎に身をかいし功徳・尸毘王とありし時・鳩のために身をかへし功徳をば我が末の代かくのごとく法華経を信ぜん人に・ゆづらむとこそ多宝・十方の仏の御前にては申させ給いしか。

其の上御消息に云く尼が父の十三年は来る八月十一日又云くぜに一貫もん等云云、あまりの御心ざしの切に候へば・ありえて御はしますに随いて法華経十巻をくりまいらせ候、日蓮がこいしく・をはせん時は学乗房によませて御ちやうもんあるべし、此の御経を・しるしとして後生には御たづねあるべし、抑去年今年のありさまは・いかにか・ならせ給いぬらむと・をぼつかなさに法華経にねんごろに申し候いつれども・いまだいぶかしく候いつるに七月二十七日の申の時に阿仏房を見つけて・尼ごぜんは・いかに・こう入道殿はいかにと・まづといて候いつれば・いまだやまず、こう入道殿は同道にて候いつるが・わせは・すでに・ちかづきぬ・こわなし・いかんがせんとて・かへられ候いつると・かたり候いし時こそ盲目の者の眼のあきたる・死し給える父母の閻魔宮より御をとづれの・夢の内に有るをゆめにて悦ぶがごとし、あわれあわれふしぎなる事かな、此れもかまくらも此の方の者は此の病にて死ぬる人は・すくなく候、同じ船にて候へば・いづれもたすかるべしとも・をぼへず候いつるに・ふねやぶれて・たすけぶねに値えるか、又竜神のたすけにて事なく岸へつけるかと・こそ不思議がり候へ。

さわの入道の事なげくよし尼ごぜんへ申しつたへさえ給え、ただし入道の事は申し切り候いしかば・をもい合


せ給うらむ、いかに念仏堂ありとも阿弥陀仏は法華経のかたきをば・たすけ給うべからず、かえりて阿弥陀仏の御かたきなり後生悪道に堕ちてくいられ候らむ事あさまし。

ただし入道の堂のらうにていのちをたびたびたすけられたりし事こそ・いかに・すべしとも・をぼへ候はね、学乗房をもつてはかにつねづね法華経を・よませ給えと・かたらせ給え、それも叶うべしとはをぼえず、さても尼のいかに・たよりなかるらむと・なげくと申しつたへさせ給い候へ、又又申すべし。

  七月二十八日                    日蓮花押

   佐渡国府阿仏房尼御前

千日尼御前御返事

                    弘安元年十月十九日 五十七歳御作

                    与 阿仏房尼

青鳧一貫文・干飯一斗・種種の物給い候い了んぬ、仏に土の餅を供養せし徳勝童子は阿育大王と生れたり、仏に漿を・まひらせし老女は辟支仏と生れたり、法華経は十方三世の諸仏の御師なり、十方の仏と申すは東方善徳仏・東南方無憂徳仏・南方栴檀徳仏・西南方宝施仏・西方無量明仏・西北方華徳仏・北方相徳仏・東北方三乗行仏・上方広衆徳仏・下方明徳仏なり、三世の仏と申すは過去・荘厳劫の千仏・現在・賢劫の千仏・未来・星宿劫の千仏・乃至華厳経・法華経・涅槃経等の大小・権実・顕密の諸経に列り給へる一切の諸仏・尽十方世界の微塵数の菩薩等も・皆悉く法華経の妙の一字より出生し給へり、故に法華経の結経たる普賢経に云く「仏三種の身は方等より生ず」等云云、方等とは月氏の語・漢土には大乗と翻ず・大乗と申すは法華経の名なり、阿含経は外道の経に対すれば大乗経、華厳・般若・大日経等は阿含経に対すれば大乗経、法華経に対すれば小乗経なり、法華経に勝れたる経なき故に一大


乗経なり、例せば南閻浮提・八万四千の国国の王王は其の国国にては大王と云う・転輪聖王に対すれば小王と申す、乃至六欲・四禅の王王は大小に渡る、色界の頂の大梵天王独り大王にして小の文字をつくる事なきが如し、仏は子なり法華経は父母なり、譬えば一人の父母に千子有りて一人の父母を讃歎すれば千子悦びをなす、一人の父母を供養すれば千子を供養するになりぬ。

又法華経を供養する人は十方の仏菩薩を供養する功徳と同じきなり、十方の諸仏は妙の一字より生じ給へる故なり、譬えば一の師子に百子あり・彼の百子・諸の禽獣に犯さるるに・一の師子王吼れば百子力を得て諸の禽獣皆頭七分にわる、法華経は師子王の如し一切の獣の頂きとす、法華経の師子王を持つ女人は一切の地獄・餓鬼・畜生等の百獣に恐るる事なし、譬えば女人の一生の間の御罪は諸の乾草の如し法華経の妙の一字は小火の如し、小火を衆草につきぬれば衆草焼け亡ぶるのみならず大木大石皆焼け失せぬ、妙の一字の智火以て此くの如し諸罪消ゆるのみならず衆罪かへりて功徳となる毒薬変じて甘露となる是なり、譬えば黒漆に白物を入れぬれば白色となる、女人の御罪は漆の如し南無妙法蓮華経の文字は白物の如し人は臨終の時地獄に堕つる者は黒色となる上其の身重き事千引の石の如し善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども臨終に色変じて白色となる又軽き事鵞毛の如し輭なる事兜羅緜の如し。

佐渡の国より此の国までは山海を隔てて千里に及び候に女人の御身として法華経を志しましますによりて年年に夫を御使として御訪いあり定めて法華経釈迦多宝十方の諸仏・其の御心をしろしめすらん、譬えば天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮び雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞ゆ、御身は佐渡の国にをはせども心は此の国に来れり、仏に成る道も此くの如し、我等は穢土に候へども心は霊山に住べし、御面を見てはなにかせん心こそ大切に候へ、いつかいつか釈迦仏のをはします霊山会上にまひりあひ候はん、南無妙法蓮華