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日蓮大聖人・池田大作

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三世諸仏総勘文教相廃立  (14/18) 竪には三世に亘つて法性の淵底を極むる
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身の中に有つて一人も漏るること無しと通達し解了し仏語を悟り極むるなり起法界信とは十法界を体と為し十法界を心と為し十法界を形と為したまえりと本覚の如来は我が身の中に有りけりと信ず増円妙道とは自行と化他との二は相即円融の法なれば珠と光と宝との三徳は只一の珠の徳なるが如し片時も相離れず仏法に不足無し一生の中に仏に成るべしと慶喜の念を増すなり、断根本惑とは一念無明の眠を覚まして本覚の寤に還れば生死も涅槃も倶に昨日の夢の如く跡形も無きなり、損変易生とは同居土の極楽と方便土の極楽と実報土の極楽との三土に往生せる人・彼の土にて菩薩の道を修行して仏に成らんと欲するの間・因は移り果は易りて次第に進み昇り劫数を経て成仏の遠きを待つを変易の生死と云うなり、下位を捨つるを死と云い上位に進むをば生と云う是くの如く変易する生死は浄土の苦悩にて有るなり、爰に凡夫の我等が此の穢土に於て法華を修行すれば十界互具・法界一如なれば浄土の菩薩の変易の生は損し仏道の行は増して変易の生死を一生の中に促めて仏道を成ず故に生身及び生身得忍の両種の菩薩・増道損生するなり、法身の菩薩とは生身を捨てて実報土に居するなり、後心の菩薩とは等覚の菩薩なり但し迹門には生身及び生身得忍の菩薩を利益するなり本門には法身と後身との菩薩を利益す但し今は迹門を開して本門に摂めて一の妙法と成す故に凡夫の我等穢土の修行の行の力を以て浄土の十地等覚の菩薩を利益する行なるが故に化の功広大なり化他の徳用、利潤弘深とは自行の徳用円頓の行者は自行と化他と一法をも漏さず一念に具足して横に十方法界に遍するが故に弘きなり竪には三世に亘つて法性の淵底を極むるが故に深きなり、此の経の自行の力用此くの如し化他の諸経は自行を具せざれば鳥の片翼を以て空を飛ばざるが如し故に成仏の人も無し今法華経は自行・化他の二行を開会して不足無きが故に鳥の二翼を以て飛ぶに障り無きが如く成仏滞り無し、薬王品には十喩を以て自行と化他との力用の勝劣を判ぜり第一の譬に云く諸経は諸水の如く法華は大海の如し云云取意、実に自行の法華経の大海には化他の諸経の衆水を入るること昼夜に絶えず入ると雖も増ぜず減ぜず


不可思議の徳用を顕す、諸経の衆水は片時の程も法華経の大海を納るること無し自行と化他との勝劣是くの如し一を以て諸を例せよ、上来の譬喩は皆仏の所説なり人の語を入れず此の旨を意得れば一代聖教鏡に懸けて陰り無し此の文釈を見て誰の人か迷惑せんや、三世の諸仏の総勘文なり敢て人の会釈を引き入る可からず三世諸仏の出世の本懐なり一切衆生・成仏の直道なり、四十二年の化他の経を以て立る所の宗宗は華厳・真言・達磨・浄土・法相・三論・律宗・倶舎・成実等の諸宗なり此等は皆悉く法華より已前の八教の中の教なり皆是方便なり兼・但・対・帯の方便誘引なり、三世諸仏の説教の次第なり此の次第を糾して法門を談ず若し次第に違わば仏法に非ざるなり、一代教主の釈迦如来も三世諸仏の説教の次第を糾して一字も違わず我も亦是くの如しとて・経に云く「三世諸仏の説法の儀式の如く我も今亦是くの如く無分別の法を説く」已上、若し之に違えば永く三世の諸仏の本意に背く他宗の祖師各我が宗を立て法華宗と諍うこと悞りの中の悞り迷いの中の迷いなり。

徴佗学の決に之を破して云く山王院「凡そ八万法蔵・其の行相を統ぶるに四教を出でず頭辺に示すが如し蔵通別円は即ち声聞・縁覚・菩薩・仏乗なり真言・禅門・華厳・三論・唯識・律業・成倶の二論等の能所の教理争でか此の四を過ぎん若し過ぐると言わば豈外邪に非ずや若し出でずと言わば便ち他の所期を問い得よ即ち四乗の果なり、然して後に答に随つて極理を推ね徴めよ我が四教の行相を以て並べ検えて決定せよ彼の所期の果に於て若し我と違わば随つて即ち之を詰めよ、且く華厳の如きは五教に各各に修因・向果有り初・中・後の行・一ならず一教一果是れ所期なるべし若し蔵通別円の因と果とに非ざれば是れ仏教ならざるのみ、三種の法輪・三時の教等・中に就て定む可し汝何者を以てか所期の乗と為るや若し仏乗なりと言わば未だ成仏の観行を見ず若し菩薩と言わば此れ亦即離の中道の異なるなり、汝正しく何れを取るや設し離の辺を取らば果として成ず可き無し如し即是を要せば仏に例して之を難ぜよ謬つて真言を誦すとも三観一心の妙趣を会せずんば恐くは別人に同じて妙理を証せじ所以に他の所期の極を


逐うて理に準じて我が宗の理なり徴べし、因明の道理は外道と対す多くは小乗及以び別教に在り若し法華・華厳・涅槃等の経に望むれば接引門なり権りに機に対して設けたり終に以て引進するなり邪小の徒をして会して真理に至らしむるなり所以に論ずる時は四依撃目の志を存して之を執着すること莫れ又須らく他の義を将つて自義に対検して随つて是非を決すべし執して之を怨むこと莫れ大底・他は多く三教に在り円旨至つて少きのみ」先徳大師の所判是の如し、諸宗の所立鏡に懸けて陰り無し末代の学者何ぞ之を見ずして妄りに教門を判ぜんや大綱の三教を能く能く学す可し、頓と漸と円とは三教なり是れ一代聖教の総の三諦なり頓・漸の二は四十二年の説なり円教の一は八箇年の説なり合して五十年なり此の外に法無し何に由つてか之に迷わん、衆生に有る時には此れを三諦と云い仏果を成ずる時には此れを三身と云う一物の異名なり之を説き顕すを一代聖教と云い之を開会して只一の総の三諦と成ずる時に成仏す此を開会と云い此を自行と云う、又他宗所立の宗宗は此の総の三諦を分別して八と為す各各に宗を立つるに依つて円満の理を闕いて成仏の理無し是の故に余宗には実の仏無きなり故に之を嫌う意は不足なりと嫌うなり、円教を取つて一切諸法を観ずること円融・円満して十五夜の月の如く不足無く満足し究竟すれば善悪をも嫌わず折節をも撰ばず静処をも求めず人品をも択ばず一切諸法は皆是れ仏法なりと知りぬれば諸法を通達す即ち非道を行うとも仏道を成ずるが故なり、天地水火風は是れ五智の如来なり一切衆生の身心の中に住在して片時も離るること無きが故に世間と出世と和合して心中に有つて心外には全く別の法無きなり故に之を聞く時立所に速かに仏果を成ずること滞り無き道理至極なり、総の三諦とは譬えば珠と光と宝との如し此の三徳有るに由つて如意宝珠と云う故に総の三諦に譬う若し亦珠の三徳を別別に取り放さば何の用にも叶う可からず隔別の方便教の宗宗も亦是くの如し珠をば法身に譬え光をば報身に譬え宝をば応身に譬う此の総の三徳を分別して宗を立つるを不足と嫌うなり之を丸じて一と為すを総の三諦と云う、此の総の三諦は三身即一の本覚の如来なり又寂光をば鏡に譬え同