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日蓮大聖人・池田大作

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法蓮抄  (1/15) 此の願若し成ぜば崑崙山の玉鮮かに求めずして…
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早早北国に差し遣し金吾殿の返報を取りて速速是非を聞かしめよ、此の願若し成ぜば崑崙山の玉鮮かに求めずして蔵に収まり大海の宝珠招かざるに掌に在らん、恐惶謹言。

  下春十日                      日蓮花押

   曾谷入道殿

   大田金吾殿

法蓮抄

                    建治元年 五十四歳御作

                    与 曾谷法蓮日礼

夫れ以れば法華経第四の法師品に云く「若し悪人有つて不善の心を以て一劫の中に於て現に仏前に於て常に仏を毀罵せん其の罪尚軽し若し人一つの悪言を以て在家・出家の法華経を読誦する者を毀訾せん其の罪甚だ重し」等云云、妙楽大師云く「然も此の経の功高く理絶えたるに約して此の説を作すことを得る余経は然らず」等云云、此の経文の心は一劫とは人寿八万歳ありしより百年に一歳をすて千年に十歳をすつ此くの如く次第に減ずる程に人寿十歳になりぬ、此の十歳の時は当時の八十の翁のごとし、又人寿十歳より百年ありて十一歳となり又百年ありて十二歳となり乃至一千年あらば二十歳となるべし乃至八万歳となる、此の一減一増を一劫とは申すなり、又種種の劫ありといへども且く此の劫を以て申すべし、此の一劫が間・身口意の三業より事おこりて仏をにくみたてまつる者あるべし例せば提婆達多がごとし、仏は浄飯王の太子・提婆達多は斛飯王の子なり、兄弟の子息なる間仏の御いとこにて・をはせしかども今も昔も聖人も凡夫も人の中をたがへること女人よりして起りたる第一のあだにてはんべるなり、釈迦如来は悉達太子としてをはしし時提婆達多も同じ太子なり、耶輸大臣に女あり耶輸


多羅女となづく五天竺第一の美女・四海名誉の天女なり、悉達と提婆と共に后にせん事をあらそひ給いし故に中あしくならせ給いぬ、後に悉達は出家して仏とならせ給い提婆達多・又須陀比丘を師として出家し給いぬ、仏は二百五十戒を持ち三千の威儀をととのへ給いしかば諸の天人これを渇仰し四衆これを恭敬す、提婆達多を人たとまざりしかばいかにしてか世間の名誉・仏にすぎんと・はげみしほどにとかう案じいだして仏にすぎて世間にたとまれぬべき事五つあり、四分律に云く一には糞掃衣・二には常乞食・三には一座食・四には常露座・五には塩及び五味を受けず等云云、仏は人の施す衣をうけさせ給う提婆達多は糞掃衣、仏は人の施す食をうけ給う提婆は只常乞食、仏は一日に一二三反も食せさせ給い提婆は只一座食、仏は塚間・樹下にも処し給い提婆は日中常露座なり、仏は便宜にはしを復は五味を服し給い提婆はしを等を服せず、かうありしかば世間・提婆の仏にすぐれたる事・雲泥なり、かくのごとくして仏を失いたてまつらんとうかがひし程に頻婆舎羅王は仏の檀那なり日日に五百輛の車を数年が間・一度もかかさずおくりて仏並びに御弟子等を供養し奉る、これをそねみ・とらんがために未生怨太子をかたらいて父・頻婆舎羅王を殺させ我は仏を殺さんとして或は石をもつて仏を打ちたてまつるは身業なり、仏は誑惑の者と罵詈せしは口業なり、内心より宿世の怨とをもひしは意業なり三業相応の大悪此れにはすぐべからず、此の提婆達多ほどの大悪人・三業相応して一中劫が間釈迦仏を罵詈・打杖し嫉妬し候はん大罪はいくらほどか重く候べきや、此の大地は厚さは十六万八千由旬なりされば四大海の水をも九山の土石をも三千の草木をも一切衆生をも頂戴して候へども落ちもせずかたぶかず破れずして候ぞかし、しかれども提婆達多が身は既に五尺の人身なりわづかに三逆罪に及びしかば大地破れて地獄に入りぬ、此の穴・天竺にいまだ候・玄奘三蔵・漢土より月支に修行して此れをみる西域と申す文に載せられたり、而るに法華経の末代の行者を心にも・をもはず色にもそねまず只たわふれてのりて候が上の提婆達多がごとく三業相応して一中劫・仏を罵詈し奉るにすぎて候ととか


れて候、何に況や当世の人の提婆達多がごとく三業相応しての大悪心をもつて多年が間・法華経の行者を罵詈・毀辱・嫉妬・打擲・讒死・歿死に当てんをや。

問うて云く末代の法華経の行者を怨める者は何なる地獄に堕つるや、答えて云く法華経の第二に云く「経を読誦し書持すること有らん者を見て軽賤憎嫉して結恨を懐かん乃至其の人命終して阿鼻獄に入らん一劫を具足して劫尽きなば復死し展転して無数劫に至らん」等云云、此の大地の下・五百由旬を過ぎて炎魔王宮あり、その炎魔王宮より下・一千五百由旬が間に八大地獄並びに一百三十六の地獄あり、其の中に一百二十八の地獄は軽罪の者の住処・八大地獄は重罪の者の住処なり、八大地獄の中に七大地獄は十悪の者の住処なり、第八の無間地獄は五逆と不孝と誹謗との三人の住処なり、今法華経の末代の行者を戯論にも罵詈・誹謗せん人人はおつべしと説き給へる文なり、法華経の第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て乃至持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云、妙楽大師云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養する有らん者は福十号に過ぐ」等云云、夫れ人中には転輪聖王・第一なり此の輪王出現し給うべき前相として大海の中に優曇華と申す大木生いて華さき実なる、金輪王出現して四天の山海を平になす大地は緜の如くやはらかに大海は甘露の如くあまく大山は金山・草木は七宝なり、此の輪王須臾の間に四天下をめぐる、されば天も守護し鬼神も来つてつかへ竜王も時に随つて雨をふらす、劣夫なんども・これに従ひ奉れば須臾に四天下をめぐる、是れ偏に転輪王の十善の感得せる大果報なり、毘沙門等の四大天王は又これには似るべくもなき四天下の自在の大王なり、帝釈は忉利天の主・第六天の魔王は欲界の頂に居して三界を領す、此れは上品の十善戒・無遮の大善の所感なり、大梵天王は三界の天尊・色界の頂に居して魔王・帝釈をしたがへ三千大千界を手ににぎる、有漏の禅定を修行せる上に慈・悲・喜・捨の四無量心を修行せる人なり、声聞と申して舎利弗・迦葉等は二百五十戒・無漏の禅定の上に苦・空・無常・無我の観をこらし三界の