Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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撰時抄  (2/37) 人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となる…
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ずや、答えて云く人路をつくる路に迷う者あり作る者の罪となるべしや良医・薬を病人にあたう病人嫌いて服せずして死せば良医の失となるか、尋ねて云く法華経の第二に云く「無智の人の中に此の経を説くこと莫れ」同第四に云く「分布して妄りに人に授与すべからず」同第五に云く「此の法華経は諸仏如来の秘密の蔵なり、諸経の中に於て最も其の上に在り長夜に守護して妄りに宣説せざれ」等云云、此等の経文は機にあらずば説かざれというか、今反詰して云く不軽品に云く「而も是の言を作さく我深く汝等を敬う等云云四衆の中に瞋恚を生じ心不浄なる者有り、悪口罵詈して言く是の無智の比丘○又云く衆人或は杖木瓦石を以て之を打擲す」等云云、勧持品に云く「諸の無智の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん」等云云、此等の経文は悪口・罵詈・乃至打擲すれどもととかれて候は説く人の失となりけるか、求めて云く此の両説は水火なりいかんが心うべき答えて云く天台云く「時に適うのみ」章安云く「取捨宜きを得て一向にすべからず」等云云、釈の心は或る時は謗じぬべきにはしばらくとかず或る時は謗ずとも強て説くべし或る時は一機は信ずべくとも万機謗べくばとくべからず或る時は万機一同に謗ずとも強て説くべし、初成道の時は法慧・功徳林・金剛幢・金剛蔵・文殊・普賢・弥勒・解脱月等の大菩薩、梵帝・四天等の凡夫・大根性の者かずをしらず、鹿野苑の苑には倶鄰等の五人・迦葉等の二百五十人・舎利弗等の二百五十人・八万の諸天、方等大会の儀式には世尊の慈父の浄飯大王ねんごろに恋せさせ給いしかば仏・宮に入らせ給いて観仏三昧経をとかせ給い、悲母の御ために忉利天に九十日が間籠らせ給いしには摩耶経をとかせ給う、慈父・悲母なんどにはいかなる秘法か惜ませ給うべきなれども法華経をば説かせ給はずせんずるところ機にはよらず時いたらざれば・いかにもとかせ給はぬにや。

問うて云くいかなる時にか小乗・権経をときいかなる時にか法華経を説くべきや、答えて云く十信の菩薩より等覚の大士にいたるまで時と機とをば相知りがたき事なり何に況や我等は凡夫なりいかでか時機をしるべき、求め


て云くすこしも知る事あるべからざるか、答えて云く仏眼をかつて時機をかんがへよ仏日を用て国土をてらせ、問うて云く其の心如何、答えて云く大集経に大覚世尊・月蔵菩薩に対して未来の時を定め給えり所謂我が滅度の後の五百歳の中には解脱堅固・次の五百年には禅定堅固已上一千年次の五百年には読誦多聞堅固・次の五百年には多造塔寺堅固已上二千年次の五百年には我法の中に於て闘諍言訟して白法隠没せん等云云、此の五の五百歳・二千五百余年に人人の料簡さまざまなり、漢土の道綽禅師が云く正像二千・四箇の五百歳には小乗と大乗との白法盛なるべし末法に入つては彼等の白法皆消滅して浄土の法門・念仏の白法を修行せん人計り生死をはなるべし、日本国の法然が料簡して云く今日本国に流布する法華経・華厳経並びに大日経・諸の小乗経・天台・真言・律等の諸宗は大集経の記文の正像二千年の白法なり末法に入つては彼等の白法は皆滅尽すべし設い行ずる人ありとも一人も生死をはなるべからず、十住毘婆沙論と曇鸞法師の難行道・道綽の未有一人得者・善導の千中無一これなり、彼等の白法隠没の次には浄土三部経・弥陀称名の一行ばかり大白法として出現すべし、此を行ぜん人人はいかなる悪人・愚人なりとも十即十生・百即百生・唯浄土の一門のみ有つて路に通入すべしとはこれなり、されば後世を願はん人人は叡山・東寺・園城・七大寺等の日本一州の諸寺・諸山の御帰依をとどめて彼の寺山によせをける田畠郡郷をうばいとつて念仏堂につけば決定往生・南無阿弥陀仏とすすめければ我が朝一同に其の義になりて今に五十余年なり、日蓮此等の悪義を難じやぶる事はことふり候いぬ、彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし、但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の一閻浮提の内・八万の国あり其の国国に八万の王あり王王ごとに臣下並びに万民までも今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

問うて云く其の証文如何、答えて云く法華経の第七に云く「我が滅度の後後の五百歳の中に広宣流布して閻浮


提に於て断絶せしむること無けん」等云云、経文は大集経の白法隠没の次の時をとかせ給うに広宣流布と云云、同第六の巻に云く「悪世末法の時能く是の経を持つ者」等云云又第五の巻に云く「後の末世の法滅せんとする時」等・又第四の巻に云く「而も此経は如来現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又第五の巻に云く「一切世間怨多くして信じ難し」又第七の巻に第五の五百歳闘諍堅固の時を説いて云く「悪魔魔民諸の天竜・夜叉・鳩槃荼等其の便を得ん」大集経に云く「我が法の中に於て闘諍言訟せん」等云云、法華経の第五に云く「悪世の中の比丘」又云く「或は阿蘭若に有り」等云云又云く「悪鬼其身に入る」等云云、文の心は第五の五百歳の時・悪鬼の身に入る大僧等・国中に充満せん其時に智人一人出現せん彼の悪鬼の入る大僧等・時の王臣・万民等を語て悪口罵詈・杖木瓦礫・流罪死罪に行はん時釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌の大菩薩らに仰せつけ大菩薩は梵帝・日月・四天等に申しくだされ其の時天変・地夭・盛なるべし、国主等・其のいさめを用いずば鄰国にをほせつけて彼彼の国国の悪王・悪比丘等をせめらるるならば前代未聞の大闘諍・一閻浮提に起るべし其の時・日月所照の四天下の一切衆生、或は国ををしみ或は身ををしむゆへに一切の仏菩薩にいのりをかくともしるしなくば彼のにくみつる一の小僧を信じて無量の大僧等八万の大王等、一切の万民・皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし、例せば神力品の十神力の時・十方世界の一切衆生一人もなく娑婆世界に向つて大音声をはなちて南無釈迦牟尼仏南無釈迦牟尼仏・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と一同にさけびしがごとし。

問うて曰く経文は分明に候・天台・妙楽・伝教等の未来記の言はありや、答えて曰く汝が不審逆なり釈を引かん時こそ経論はいかにとは不審せられたれ経文に分明ならば釈を尋ぬべからず、さて釈の文が経に相違せば経をすてて釈につくべきか如何、彼云く道理至極せり、しかれども凡夫の習経は遠し釈は近し近き釈分明ならばいますこし信心をますべし、今云く汝が不審ねんごろなれば少少釈をいだすべし天台大師云く「後の五百歳遠く妙道に