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日蓮大聖人・池田大作

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内房女房御返事  (2/5) 南無と申す字は敬う心なり随う心なり、故に阿…
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「嗚呼閻浮の露庭に白骨仮りに塵土と成るとも霊山の界上に亡魂定んで覚蘂を開かん」又云く「弘安三年女弟子大中臣氏敬白す」等云云。

夫れ以れば一乗妙法蓮華経は月氏国にては一由旬の城に積み日本国にては唯八巻なり、然るに現世後生を祈る人或は八巻或は一巻或は方便寿量或は自我偈等を読誦し讃歎して所願を遂げ給ふ先例之多し此は且らく之を置く、唱へ奉る妙法蓮華経の題名五万返と云云、此の一段を宣べんと思いて先例を尋ぬるに其の例少なし、或は一返・二返唱へて利生を蒙る人粗これ有るか、いまだ五万返の類を聞かず、但し一切の諸法に亘りて名字あり其の名字皆其の体徳を顕はせし事なり、例せば石虎将軍と申すは石の虎を射徹したりしかば石虎将軍と申す、的立の大臣と申すは鉄的を射とをしたりしかば的立の大臣と名く、是皆名に徳を顕はせば今妙法蓮華経と申し候は一部八巻・二十八品の功徳を五字の内に収め候、譬へば如意宝珠の玉に万の宝を収めたるが如し、一塵に三千を尽す法門是なり、南無と申す字は敬う心なり随う心なり、故に阿難尊者は一切経の如是の二字の上に南無等云云、南岳大師云く南無妙法蓮華経云云、天台大師云く稽首南無妙法蓮華経云云、阿難尊者は斛飯王の太子・教主釈尊の御弟子なり、釈尊御入滅の後六十日を過ぎて迦葉等の一千人・文殊等の八万人・大閣講堂にして集会し給いて仏の別を悲しみ給ふ上、我等は多年の間・随逐するすら六十日の間の御別を悲しむ、百年・千年・乃至末法の一切衆生は何をか仏の御形見とせん、六師外道と申すは八百年以前に二天・三仙等の説き置きたる四韋陀・十八大経を以てこそ師の名残とは伝へて候へ、いざさらば我等五十年が間・一切の声聞・大菩薩の聞き持ちたる経経を書き置きて未来の衆生の眼目とせんと僉議して、阿難尊者を高座に登せて仏を仰ぐ如く、下座にして文殊師利菩薩・南無妙法蓮華経と唱へたりしかば、阿難尊者此れを承け取りて如是我聞と答ふ、九百九十九人の大阿羅漢等は筆を染めて書き留め給いぬ、一部八巻・二十八品の功徳は此の五字に収めて候へばこそ文殊師利菩薩かくは唱へさせ給


うらめ、阿難尊者又さぞかしとは答え給うらめ、又万二千の声聞・八万の大菩薩・二界八番の雑衆も有りし事なれば合点せらるらめ、天台智者大師と申す聖人・妙法蓮華経の五字を玄義十巻・一千丁に書き給いて候、其の心は華厳経は八十巻・六十巻・四十巻・阿含経数百巻・大集方等数十巻・大品般若四十巻・六百巻・涅槃経四十巻・三十六巻、乃至月氏・竜宮・天上・十方世界の大地微塵の一切経は妙法蓮華経の経の一字の所従なり、妙楽大師重ねて十巻造るを釈籤と名けたり、天台以後に渡りたる漢土の一切経・新訳の諸経は皆法華経の眷属なり云云、日本の伝教大師重ねて新訳の経経の中の大日経等の真言の経を皆法華経の眷属と定められ候い畢んぬ、但し弘法・慈覚・智証等は此の義に水火なり此の義後に粗書きたり、譬へば五畿・七道・六十六箇国・二つの島・其の中の郡と荘と村と田と畠と人と牛馬と金銀等は皆日本国の三字の内に備りて一つも闕くる事なし、又王と申すは三の字を横に書きて一の字を豎さまに立てたり、横の三の字は天・地・人なり、豎の一文字は王なり、須弥山と申す山の大地をつきとをして傾かざるが如し、天・地・人を貫きて少しも傾かざるを王とは名けたり、王に二つあり一には小王なり人王天王是なり二には大王なり大梵天王是なり、日本国は大王の如し国国の受領等は小王なり、華厳経・阿含経・方等経・般若経・大日経・涅槃経等の已今当の一切経は小王なり、譬へば日本国中の国王・受領等の如し、法華経は大王なり天子の如し、然れば華厳宗・真言宗等の諸宗の人人は国主の内の所従等なり、国国の民の身として天子の徳を奪ひ取るは下剋上・背上向下・破上下乱等これなり、設いいかに世間を治めんと思ふ志ありとも国も乱れ人も亡びぬべし、譬へば木の根を動さんに枝葉静なるべからず・大海の波あらからんに船おだやかなるべきや、華厳宗・真言宗・念仏宗・律僧・禅僧等我が身持戒正直に智慧いみじく尊しといへども、其の身既に下剋上の家に生れて法華経の大怨敵となりぬ、阿鼻大城を脱るべきや、例せば九十五種の外道の内には正直有智の人多しといへども、二天・三仙の邪法を承けしかば終には悪道を脱るる事なし。


然るに今の世の南無阿弥陀仏と申す人人、南無妙法蓮華経と申す人を或は笑ひ或はあざむく、此れは世間の譬に稗の稲をいとひ家主の田苗を憎む是なり、是国将なき時の盗人なり日の出でざる時の鼹なり、夜打強盗の科めなきが如く地中の自在なるが如し、南無妙法蓮華経と申す国将と日輪とにあはば大火の水に消へ猨猴が犬に値うなるべし、当時南無阿弥陀仏の人人・南無妙法蓮華経の御声の聞えぬれば、或は色を失ひ或は眼を瞋らし或は魂を滅し或は五体をふるふ、伝教大師云く日出れば星隠れ巧を見て拙きを知る、竜樹菩薩云く謬辞失い易く邪義扶け難し、徳慧菩薩云く面に死喪の色有り言に哀怨の声を含む、法歳云く昔の義虎今は伏鹿なり等云云、此等の意を以て知ぬべし、妙法蓮華経の徳あらあら申し開くべし、毒薬変じて薬となる妙法蓮華経の五字は悪変じて善となる、玉泉と申す泉は石を玉となす此の五字は凡夫を仏となす、されば過去の慈父尊霊は存生に南無妙法蓮華経と唱へしかば即身成仏の人なり、石変じて玉と成るが如し孝養の至極と申し候なり、故に法華経に云く「此の我が二りの子已に仏事を作しぬ」又云く「此の二りの子は是我が善知識なり」等云云。

乃往過去の世に一の大王あり名を輪陀と申す、此の王は白馬の鳴くを聞きて色も・いつくしく力も強く供御を進らせざれども食にあき給ふ他国の敵も冑を脱き掌を合す、又此の白馬鳴く事は白鳥を見て鳴きけり、然るに大王の政や悪しかりけん又過去の悪業や感じけん、白鳥皆失せて一羽もなかりしかば白馬鳴く事なし、白馬鳴かざりければ大王の色も変じ力も衰へ身もかじけ謀も薄くなりし故に国既に乱れぬ、他国よりも兵者せめ来らんに何とかせんに歎きし程に、大王の勅宣に云く国には外道多し皆我が帰依し奉る仏法も亦かくの如し、然るに外道と仏法と中悪し何にしても白馬を鳴かせん方を信じて一方を我が国に失ふべしと云云、爾の時に一切の外道集りて白鳥を現じて白馬を鳴かせんとせしかども白鳥現ずる事な