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日蓮大聖人・池田大作

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千日尼御返事  (5/5) 其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経…
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て父を子に・あづけ給へり、其れよりついに人を馬となす事は・とどめられぬ。

子ならずば・いかでか尋ねゆくべき、目連尊者は母の餓鬼の苦をすくひ浄蔵浄眼は父の邪見をひるがいす、此れよき子の親の財となるゆへぞかし、而るに故阿仏聖霊は日本国・北海の島のいびすのみなりしかども後生ををそれて出家して後生を願いしが・此の人日蓮に値いて法華経を持ち去年の春仏になりぬ、尸陀山の野干は仏法に値いて生をいとひ死を願いて帝釈と生れたり、阿仏上人は濁世の身を厭いて仏になり給いぬ、其の子藤九郎守綱は此の跡をつぎて一向法華経の行者となりて・去年は七月二日・父の舎利を頸に懸け、一千里の山海を経て甲州・波木井身延山に登りて法華経の道場に此れをおさめ、今年は又七月一日身延山に登りて慈父のはかを拝見す、子にすぎたる財なし・子にすぎたる財なし南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

  七月二日                      日蓮花押

   故阿仏房尼御前御返事


国府入道殿御返事

                    文永十二年 五十四歳御作

 あまのりのかみぶくろ二つ・わかめ十でう・こものかみぶくろ一つ・たこひとかしら。

人の御心は定めなきものなればうつる心さだめなし、さどの国に候いし時・御信用ありしだにもふしぎにをぼへ候いしに、これまで入道殿をつかわされし御心ざし・又国も・へだたり年月もかさなり候へば・たゆむ御心もやとうたがい候に・いよいよ・いろをあらわしこうをつませ給う事・但一生二生の事にはあらざるか、此の法華経は信じがたければ仏人の子となり父母となり女となりなんどしてこそ信ぜさせ給うなれ、しかるに御子もをはせず但をやばかりなり、其中衆生悉是吾子の経文のごとくならば教主釈尊は入道殿尼御前の慈父ぞかし、日蓮は又御子にてあるべかりけるが、しばらく日本国の人をたすけんと中国に候か、宿善たうとく候、又蒙古国の日本にみだれ入る時は・これへ御わたりあるべし、又子息なき人なれば御としのすへには・これへと・をぼしめすべし、いづくも定めなし、仏になる事こそつゐのすみかにては候いしと・をもひ切らせ給うべし、恐恐。

  卯月十二日                     日蓮花押

こう入道殿御返事


国府尼御前御書

                    建治元年 五十四歳御作

 阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文、同心なれば此の文を二人して人によませて・きこしめせ。

単衣一領・佐渡の国より甲斐の国・波木井の郷の内の深山まで送り給候い了んぬ、法華経第四法師品に云く「人有つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間・ねんごろに供養し奉るよりも・末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳は・すぐれたりと・とかれて候、まことしからぬ事にては候へども・仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、其の上妙楽大師と申す人・此の経文を重ねて・やわらげて云く「若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云、釈の心は末代の法華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり、又濁世に法華経の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。

夫れ日蓮は日本第一のゑせものなり、其の故は天神七代は・さておきぬ、地神五代も又はかりがたし、人王始まりて神武より今に至るまで九十代・欽明天王より七百余年が間・世間につけ仏法によりても日蓮ほど・あまねく人にあだまれたるものは候はじ、守屋が寺塔をやき清盛入道が東大寺興福寺を失せし・彼等が一類は彼がにくまず、将門貞たうが朝敵と成りし・伝教大師の七寺にあだまれし・彼等もいまだ日本一州の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆には・にくまれず、日蓮は父母・兄弟・師匠・同法・上一人・下万民・一人ももれず・父母のかたきのごとく・謀反強盗にも・すぐれて人ごとに・あだをなすなり、されば或時は数百人にのられ・或時は数千人に取りこめられて刀杖の大難にあう、所を・をはれ国を出さる・結句は国主より御勘気二度・一度は伊豆の国・今度は佐渡の嶋な