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日蓮大聖人・池田大作

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主師親御書  (4/5) 文の心は女人は地獄の使・よく仏の種をたつ外…
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女人有りて妙法華経の提婆達多品を聞いて浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は地獄・餓鬼・畜生に堕せずして十方の仏前に生ぜん」と、此の品には二つの大事あり一には提婆達多と申すは阿難尊者には兄・斛飯王には嫡子・師子頬王には孫・仏にはいとこにて有りしが仏は一閻浮提第一の道心者にてましまししに怨をなして我は又閻浮提第一の邪見放逸の者とならんと誓つて万の悪人を語いて仏に怨をなして三逆罪を作つて現身に大地破れて無間大城に堕ちて候いしを天王如来と申す記莂を授けらるる品にて候、然れば善男子と申すは男此の経を信じまひらせて聴聞するならば提婆達多程の悪人だにも仏になる、まして末代の人はたとひ重罪なりとも多分は十悪をすぎずまして深く持ち奉る人仏にならざるべきや、二には娑竭羅竜王のむすめ竜女と申すは八歳のくちなは仏に成りたる品にて候此の事めづらしく貴き事にて候、其の故は華厳経には「女人は地獄の使なり能く仏種子を断ず外面は菩薩に似て内心は夜叉の如し」と、文の心は女人は地獄の使・よく仏の種をたつ外面は菩薩に似たれども内心は夜叉の如しと云へり、又云く「一度女人を見る者はよく眼の功徳を失ふ設ひ大蛇をば見るとも女人を見るべからず」と云い、又有る経には「所有の三千界の男子の諸の煩悩を合せ集めて一人の女人の業障と為す」と三千大千世界にあらゆる男子の諸の煩悩を取り集めて女人一人の罪とすと云へり、或経には「三世の諸仏の眼は脱て大地に堕つとも女人は仏に成るべからず」と説き給へり、此の品の意は人畜をいはば畜生たる竜女だにも仏に成れりまして我等は形のごとく人間の果報なり、彼の果報にはまされり争か仏にならざるべきやと思食すべきなり。

中にも三悪道におちずと説かれて候其の地獄と申すは八寒八熱乃至八大地獄の中に初め浅き等活地獄を尋ぬれば此の一閻浮提の下一千由旬なり、其の中の罪人は互に常に害心をいだけりもしたまたま相見れば猟師が鹿にあへるが如し各各鉄の爪を以て互につかみさく血肉皆尽きて唯残つて骨のみあり或は獄卒棒を以て頭よりあなうらに至るまで皆打ちくだく身も破れくだけて猶沙の如し、焦熱なんど申すは譬えんかたなき苦なり鉄城四方に回つ


て門を閉じたれば力士も開きがたく猛火高くのぼつて金翅のつばさもかけるべからず、餓鬼道と申すは其の住処に二あり一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり、二には人天の中にもまじはれり其の相種種なり或は腹は大海の如くのんどは鍼の如くなれば明けても暮れても食すともあくべからず、まして五百生・七百生なんど飲食の名をだにもきかず或は己が頭をくだきて脳を食するもあり或は一夜に五人の子を生んで夜の内に食するもあり、万菓林に結べり取らんとすれば悉く剣の林となり万水大海に流入りぬ飲んとすれば猛火となる如何にしてか此の苦をまぬがるべき、次に畜生道と申すは其の住所に二あり根本は大海に住す枝末は人天に雑れり短き物は長き物にのまれ小き物は大なる物に食はれ互に相食んでしばらくもやすむ事なし、或は鳥獣と生れ或は牛馬と成つても重き物をおほせられ西へ行かんと思へば東へやられ東へ行かんとすれば西へやらる山野に多くある水と草をのみ思いて余は知るところなし、然るに善男子・善女人・此の法華経を持ち南無妙法蓮華経と唱え奉らば此の三罪を脱るべしと説き給へり何事か是にしかん・たのもしきかな・たのもしきかな、又五の巻に云く「我れ大乗経を闡いて苦の衆生を度脱す」と心はわれ大乗の教をひらいてと申すは法華経を申す苦の衆生とは何ぞや地獄の衆生にもあらず餓鬼道の衆生にもあらず只女人を指して苦の衆生と名けたり、五障三従と申して三つしたがふ事有つて五つの障りあり竜女我女人の身を受けて女人の苦をつみしれり然れば余をば知るべからず女人を導かんと誓へり、南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経。

                            日蓮花押


一代聖教大意

                    正嘉二年二月 三十七歳御作

四教は一には三蔵教・二には通教・三には別教・四には円教なり。

始に三蔵とは阿含経の意なり・此の経の意は六道より外を明さず但し六道地餓畜修人天の内の因果の道理を明す、但し正報は十界を明すなり地・餓・畜・修・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏なり依報が六にて有れば六界と申すなり、此の教の意は六道より外を明さざれば三界より外に浄土と申す生処ありと言わず又三世に仏は次第・次第に出世すとは云へども横に十方に並べて仏有りとも云わず、三蔵とは一には経蔵亦云定蔵二には律蔵亦云戒蔵三には論蔵亦云慧蔵なり但し経律論の定戒慧・戒定慧・慧定戒と云う事あるなり、戒蔵とは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒なり・定蔵とは味禅定名・浄禅・無漏禅なり・慧蔵とは・苦・空・無常・無我の智慧なり、戒定慧の勝劣と云うは但上の戒計りを持つ者は三界の内の欲界の人天に生を受くる凡夫なり、但し上の定計りを修する人は戒を持たざれども定の力に依つて上の戒を具するなり、此の定の内に味禅・浄禅は三界の内・色無色界へ生ず無漏禅は声聞・縁覚と成つて見思を断じ尽し灰身滅智するなり、慧は又苦・空・無常・無我と我が色心を観ずれば上の戒・定を自然に具足して声聞・縁覚とも成るなり、故に戒より定は勝れ定より慧は勝れたり、而れども此の三蔵教の意は戒が本体にてあるなり、されば阿含経を総結する遺教経には戒を説けるなり、此の教の意は依報には六界・正報には十界を明せども而も依報に随つて六界を明す経と名くるなり、又正報に十界を明せども縁覚・菩薩・仏も声聞の悟に過ぎざれば但声聞教とも申す、されば仏も菩薩も縁覚も灰身滅智する教なり、声聞に付いて七賢七聖の位あり、六道は凡夫なり。